じじぃの「人の死にざま_1608_佐々木・武雄(亜細亜友之会・初代理事長)」

      財団法人 亜細亜友之会

http://www.asian-fellowship.jp/af-profile-photo.html
佐々木武雄 ウィキペディアWikipedia) より
佐々木 武雄(ささき たけお, 1905年3月7日 - 1986年3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は予備役大尉。
1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて日本の降伏に際して発生し未遂に終わった宮城事件に呼応し、出身校である横浜工業専門学校の有志らを募って、首相官邸と時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした。
事件後は憲兵などの目をかいくぐる逃亡生活を行った末、比較的早い時期に大山 量士(おおやま かずし)として世に現れる。改名後は「亜細亜友之会」を立ち上げて事務局長および理事長として活躍し、アジア出身の留学生から「オヤジ」として慕われた。
佐々木武雄は1905年に、北海道小樽に生まれる。横浜高等工業学校建築科の第一回生であり、在学中は応援団団長として活躍する一方、大川周明の思想に共鳴して大川系の国粋主義団体にも身を置き、行動右翼の一人として横浜周辺では名が知れた人物であった。陸軍に入隊後は応召と予備役を往復する生活を過ごした。
昭和20年8月15日、軽機関銃を発射して官邸内に突入。当時、官邸の警備は薄く内部には留守番役迫水久常内閣書記官長と、迫水の実弟で内閣嘱託の迫水久良しかいなかったため侵入自体は易々とおこなわれたが、焼き討ちの実行に移るも撒いたのが重油であったため、火が付ききらないうちに消されてしまった。ここで警備の警察官が隊に接近し、鈴木が小石川区丸山町の自宅にいることを隊に教えたため、佐々木は自動車を丸山町の鈴木邸に差し向けることとなった。小径に難渋したものの5時30分ごろに鈴木邸に到着した佐々木らは邸に乱入して鈴木を捜索したが、鈴木は間一髪で逃げたあとだった。

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昭和史の謎を追う 下』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
終戦史再掘(下) 「アジア留学生の父」へ」 (一部抜粋しています)
どうやら佐々木隊の決起は、予想より数日早まったものと思われる。学生の池内を犬山へ使者に出したのも、それだけの余裕を見越してのことだったが、8月14日、陸軍省の同志から届いた情報で急に立ちあがることになったのだろう。
といっても、全軍あげてのクーデター構想は流れ、畑中一派や近衛師団有志の私的決起に切りかわっていた。おそらく佐々木は、こうした事態の急変を理解しないまま、一匹狼の集団として独自に動いたと想像される。実際に、近衛師団と連絡をとったり合流しようと試みた形跡はない。
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憲兵や警察が終戦直後のドサクサにどれくらい力を入れて捜査したか、疑えば疑えるが、もう一歩で取り逃がしたのは事実らしい。犬山部隊の旧部下だった真野稔少尉(現弁護士)の語るところによると、8月末犬山に現れた佐々木は意気いささかも衰えず、もういちど同志をかき集めて、降伏調印式の当日、ミズーリ号に水上特攻をかけようと言い出し、真野以下の数名を引きつれ、トラックで横浜へ向かった。
しかし当てにしていた有志が動かないので、あきらめて犬山へ舞い戻り、美濃太田で開拓でもやろうとしているところを警察に包囲されるが、寸前に富山へ脱出して逮捕を免れ、ほとぼりを冷まして岐阜へ戻った。
ところが、翌年1月になると、こんどは占領軍のCIC各務原支部が、過激な共産党員の嫌疑で佐々木を探しているという情報が入った。どこで混線したのか、と仲間は顔を見合わせたが、17日に真野、菅、小野の3人が捕まって、岐阜警察の留置場に3ヵ月放りこまれる。佐々木はこの時も危険を察して、前日には九州へ逃れている。
その後の佐々木の逃避経路ははっきりしないが、生前に新名丈夫へ語ったところだと、「北海度から八丈島まで流浪の生活を送っていたが……外国へ逃亡したにちがいないと噂された」そうである。
ともあれ、彼が大山量士と名は変えたものの、半公然と世間に姿を現したのは意外に早い。『日本のいちばん長い日』には「14年間も時効を迎えるまで地下に潜っていたという」とあるが、1949年には東京に出てきて国際技術者連合会という財団法人を設立、年譜に従えば51年3月23日に蔵前工業会館で「日本、韓国、中国のアジアの同志20余名にて亜細亜友之会を結成、事務局長に就任した。
なんらな黙契があったかと思われるが刑事訴訟法は新旧ともに放火の法廷時効は15年だから、大胆不敵な登場ではあった。この頃だろう。大山は鈴木一(侍従次長、ついで入国管理庁長官)を訪ねて官邸私邸を焼いたことを詫びた。
だが鈴木は「あんなことでもしなければ、腰ぬけに思われたでしょう。まあ、いいじゃないでしょうか」と逆に大山を慰め、それが縁で亜細亜友之会の活動を支援するようになった。
会は「アジアの精神復興運動」をモットーに翌年来日したバル判事への感謝国民大会を開くなど当初は政治運動に傾斜するが、やがてアジア留学生の世話や交流に重点を移し、順調に発展する。
とくにアジア親善大会と留学生によるアジア親善全国遊説は、年中行事として定着した。1962年7月には外務大臣の許可を受けた財団法人となり、大山は86年3月20日、80歳で亡くなるまで理事長の職にあり、陣頭指揮をとっていた。