じじぃの「人の死にざま_787_小渕・恵」

小渕恵三 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B0%8F%E6%B8%95%E6%81%B5%E4%B8%89/1506/
平成 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_4vKp3BGecs
小渕恵三 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
小渕恵三(おぶちけいぞう、1937年(昭和12年)6月25日 - 2000年(平成12年)5月14日)は、日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。学位は政治学修士早稲田大学)。
衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣官房長官(第49代)、外務大臣(第125代)、内閣総理大臣(第84代)などを歴任した。
【平成おじさんから首相へ】
官房長官時代に昭和天皇崩御元号変更にあたり、記者会見で「新しい元号は「平成」であります」と平成を公表した。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として広く知られるようになった。小渕が「平成」と書かれた額を掲げるシーンは、いまだに時代を象徴する映像として多く利用されている。
昭和天皇崩御にともない官房長官として大喪の礼などの重要課題を取り仕切った。しかし、官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に堀内俊夫環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。
1991年(平成3年)4月、当時自民党幹事長だった小沢一郎東京都知事選挙に際し、NHK論説主幹だった磯村尚徳を強引に担ぎ出したものの、自民党都連は小沢に反発し現職の鈴木俊一を推すという分裂選挙を引き起こし、結局鈴木が完勝。小沢が引責辞任したため自由民主党幹事長に就任。このとき、金丸は小渕幹事長就任の経緯について「ファースト・インプレッションだ」と語った。
1992年(平成4年)10月、竹下派経世会)会長の金丸信東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、金丸の後継をめぐって小沢一郎と反小沢派の対立が激化。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕との間で後継会長の座が争われた。

                                      • -

『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
忘れられた宰相? 小渕恵三 (一部抜粋しています)
理経験者を「忘れられた日本人」扱いするのは気がひけるが、ここで小渕元総理を取り上げる理由は2つある。
1つは小渕以降、日本の政治から、”思いやり”という言葉が消えたことである。小渕以降、わか国には、森喜朗小泉純一郎、安倍信三、福田康夫麻生太郎と5人の総理が誕生したが、安倍、福田政権は社会的弱者を顧みず、無責任にも政権を途中で放り出した。とりわけ5年5ヵ月に及ぶ小泉内閣の時代は、日本を弱肉強食型の格差社会に突入させるターニングポイントになった。激増するネットカフェ難民といい、後期高齢者医療制度の導入といい、小渕以降のわが国の政治の冷たさを象徴している。
小渕の時代がよかったとはいわないが、八百屋の店頭でカブを両手で持ちあげ、「株、あがれぇっ!」とやって見せたノー天気ぶりが、いまとなっては懐かしい。そうした出来事も人びとの記憶の中から薄れはじめた。わたしが取材した知られざる小渕の人となりを書きとめておきたいと思ったのは、そのためである。
2つ目の理由は、「蒟蒻新聞」のことを含めて書いた『業界紙諸君!』と、小渕の評伝『凡宰伝』(文春文庫)に共通する忘れられない思い出があったからである。
業界紙諸君!』を刊行後、「死んだ父の棺に納めさせてもらいました」という電話が村上貞一の長男からあり、感動した話は前回紹介した。最後のまとめにかかっているとき首相官邸で倒れ、意識の戻らぬまま順天堂大学病院のベッドで横たわっているとき刊行された『凡宰伝』でも同じようなことがあった。
小渕の死を報告するため、皇居に挨拶に言った千鶴子夫人から私にこんな電話かあった。
天皇・皇后両陛下は主人の死をたいへん悲しんでおられました。話の様子から、両陛下は、『凡宰伝』をお読みのようでした。大変な光栄なことなので、あの本を主人の棺におさめようと思います。御了承ください」
両陛下が読んでいる。それだけで、こちらこそ身の縮まる思いだった。
      ・
この当時、小渕の打ち出した自(民党)自(由党)公(明党)連立政権に対し、加藤紘一山崎拓など自民党幹部から反発が出ており、政局は混迷の様相を見せていた。
そんな微妙な時期だっただけに、小渕が首相官邸に2時間近く引きこもったことに、記者たちは神経をとがらせていた。実際には私のインタビューを受けていたわけだが、新聞記者たちの間では、小渕は創価学会名誉会長の池田大作と密談していたのではないか、師匠と仰ぐ竹下登が入院中の病院を抜け出し、小渕に秘策を与えていたのではないかといったなまぐさい噂が乱れ飛んだ。
「首相動静」の官邸詰め記者とのやりとりを読んで、私は腹がよじれるほど笑った。
記者 誰と会っていたんですか。
小渕 日本人だ。
凡人宰相なんてとんでもない。小渕が急死しなければ日本はもう少しましな国になったのではないか。その後、自宅にしばしばかかってきた”ブッチホン”とともに。小渕のことを懐かしく思い出す。

                                      • -

小渕恵三 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%B0%8F%E6%B8%95%E6%81%B5%E4%B8%89&oi=image_result_group&sa=X