大川周明 - あのひと検索 SPYSEE
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東京裁判 - 東条英機の頭をはたく大川周明 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DiXcg36Oa-M&list=PL3CF446AA61021E51
東京裁判で東條英機の頭をはたいた大川周明: かつて日本は美しかった
本当に発狂していたのか?
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2013/01/post-700c.html
大川周明 ウィキペディア(Wikipedia)』より
大川 周明は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。
なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
【経歴】
山形県酒田市出身。
太平洋戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され、東京裁判に出廷した。大川は水色のパジャマを着用。素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(東條は最初は苦笑していたが何度も叩かれたため睨みつけたという)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」(I,I think 英訳私は、私は思う)と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。 15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した。大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。
その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大川周明(おおかわしゅうめい) (1886 - 1957) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「学者であるには血が熱きに過ぎ、志士であるには学問があり過ぎた」と評され、北一輝とともに右翼の理論的指導者として、昭和前期「三月事件」「十月事件」「五・一五事件」などの右翼クーデター事件の背後にあったといわれる大川周明は、敗戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判にひき出されたが、その第1日目、昭和21年5月3日、法廷で前列に座っている東条大将の禿頭(はげあたま)を突如ピシャリとたたくという異常行為を示した。
診察の結果、彼は脳梅毒と診断され、裁判は免訴になった。マラリア療法を受けた結果快方に向かい、松沢病院の病室でコーランの翻訳にかかり、昭和25年完成した。
そして退院後、農村再建のために行脚中、昭和32年風邪をひき、心臓衰弱をひき起こし、12月24日死亡した。
ところで大川は、どこで梅毒に感染したものであろうか。大川夫人はのちに奇怪な事実を述べる。「夫は女と交わることの出来ない人でした。夫と私の関係は終始兄と妹のようなものでした。だからほかの女から梅毒を移されるようなことはあり得ません」