Hull note - World War II 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=04lceyL3jEQ
コーデル・ハル ウィキペディア(Wikipedia)より
コーデル・ハル(Cordell Hull、1871年10月2日 - 1955年7月23日)は、アメリカ合衆国の政治家。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた。1945年のノーベル平和賞の受賞者であり、「国際連合の父」と称される。
【経歴】
国務長官として彼は、太平洋戦争開戦前夜の1940年から1941年の日米交渉の失敗に全般的に関与した。とりわけ1941年11月にハル・ノートを提示したことが日本側の外交交渉断念につながった。ハルの日米交渉への姿勢に対する評価は、強力で必要なものであったと賛美するものから過度に強硬で単に開戦を刺激したに過ぎないと嘲笑するものまで、歴史家によって大きく変化する。
1943年のモスクワ会議ではアメリカ全権代表を務めた。
ハルはドイツのロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンと彼の研究チームをペーパークリップ計画によってアメリカに移送し、アメリカの戦後のロケット計画を組織するのに貢献した。同計画は後のNASAの宇宙開発計画の基礎となった。
ハルは国際連合の発案者および熱心な支持者であったことで有名である。彼は「国連憲章」の執筆を国務省に強く求めた主要人物であり、それは1943年の中頃までに実行された。ハルは1944年11月に健康問題で国務長官を辞任した。ルーズヴェルトはハルの辞任に際して「(彼は)世界で平和のためにこの大きな計画を達成するために最も尽力した一人である。」と語った。ハルは1945年にノーベル平和賞を受賞した。
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『子供たちに伝えたい日本の戦争 - あのときなぜ戦ったのか』 皿木喜久/著 産経新聞出版 2014年発行
米は「裏口からの参戦」を図った ハル・ノートは最後通牒 (一部抜粋しています)
満州事変を指揮した石原莞爾が陸軍士官学校の4期先輩の東条英機を「東条上等兵」と呼び、さげすんでいたのは有名だ。
対中国問題での意見の違いもあったが、国家を任せられる見識を持ち合わせていないという意味で、同調する者も多かった。それでも東条を陸相から首相にまで上り詰めさせたのは、その真面目一徹な性格と天皇への強い忠誠心だったとも言われる。
首相となったのは昭和16(1941)年10月18日である。前任の近衛文麿が政権を投げ出したのは米国などと開戦か、交渉継続かという重大局面に閣内一致ができなかったためだ。
だが、内大臣、木戸幸一の推挙で東条が後任に指名されたことは国内外に驚きで迎えられた。東条はとりわけ中国に対しては強硬派である。対中妥協ができないなら米国との交渉は至難で、開戦必至と見られたからである。
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これを受け11月5日、中国や仏印(フランス領インドシナ)からの暫時撤退などを盛り込んだ甲、乙2つの妥協案をつくり、米ルーズベルト政権の国務長官、コーデル・ハルに打診する。だがハルは日本案には答えず、米側の「暫定協定案」をまとめた。
文字通り断定的な案だったが、日本が南部仏印の兵を撤収することなどを条件に、日本への禁輸緩和を品目ごとに細かく示しており日本としては必ずしも受け入れられない内容ではなかった。だがこの協定案は26日、突如廃棄され、代わりに「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」なる提案が野村に手交された。これが日本で「ハル・ノート」と呼ばれているものである。
新たな提案は①中国及び印度支那から一切の軍事力、警察力の撤収 ②重慶の国民政府以外の中国における政権(つまり南京の汪兆銘政府)を支持しない ③日独伊3国同盟の事実上の否定−などからなっていた。
戦後の東京裁判で日本を擁護したインドのパール判事が「(小国である)モナコやルクセンブルクでも立ち上がっただろう」と述べたとされるほど、とうてい日本が受け入れられないことばかりだった。日本側は、事実上の「最後通牒(つうちょう)」や「宣戦布告」として受け取った。「天佑」とする声まであり日本が米国との戦争に踏み切る直接のきっかけとなった。