じじぃの「人の死にざま_1711_ラダ・ビノード・パール(東京裁判・判事)」

Radhabinod Pal Memorial at Yasukuni Shrine 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=J9_FuOpzb6M
パール判事

ラダ・ビノード・パール ウィキペディアWikipedia) より
ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人

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『現代史の争点』 秦郁彦/著 文藝春秋 1998年発行
太平洋戦争を理解するキーワード より
日本の対米開戦を最終的に決意させたハル米国務長官の対日通告を、一般にハル・ノートと呼ぶ。東京裁判で「日本無罪」論を展開した パール判事 が、「こんなものを受けとったらモナコルクセンブルクのような小国でも立ちあがったろう」と評したほど過酷な内容だったが、今になって見るとさまざまな解釈が可能だ。
1941年春から始まった日米交渉が一進一退をくり返す途中の7月末、日本は南部仏印進駐を断行、その報復としてアメリカは在米日本資源の凍結つまり対日経済断交にふみ切り、英蘭も追随して石油が一滴も入らなくなってしまう。
このままでは2年たたぬ間に軍艦も飛行機も戦車も動かなくなる窮地に立った日本は、南仏印から撤退する代わりに石油の供給を再開してもらう暫定協定をとりつけようと交渉をつづけたが、代わりに米が突きつけてきたのはハル・ノート(11月26日)であった。

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『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
日露戦争に感激した若き日のパール判事 より
ラダ・ビノード・パールの名前を聞いたことがありますか。1946年(昭和21年)、極東国際軍事裁判東京裁判)のインド代表判事として日本にきて、11人の判事の中でただ1人、日本人全被告の無罪を主張した人です。
パールは1886年、インドのベンガルに生まれます。3歳で父親をなくしたために家は貧しく、村の学校にいくのがやっとでした。ただ成績が抜群だったため、援助を受けてカルカッタ大学と州政府の大学に学びます。
1905年、パールが19歳のときです。アジアの小さな国日本がロシア帝国と戦って勝利するというニュースがインドに伝わりました。パールはこのとき、大きな感動を味わったといいます。
当時、インドはイギリス帝国の植民地でした。植民地政策の基本は「有色人種は白人に比べて劣っている」という考え方をたたき込むことでした。日露戦争の日本の勝利は、この考え方を事実で打ち破る大事件だったのです。
東京裁判の判事として日本にきたのは、カルカッタ大学の学長をしていたころでした。着任から2ヵ月、パールは「他の判事の意見には同意できない」とホテルの自室にこもるようになります。
他の10人の判事が同意した起訴状の内容は①東条英機以下28人の被告たちは一つの共同謀議に加わっていた ②目的は侵略による世界支配である ③その目的のため通常の戦争犯罪のほかに「平和に対する罪」「人道に対する罪」を犯したというものです。パールにはまるで納得のいかない内容でした。
他の判事たちが観光旅行や宴会をしているときにもパールはホテルの部屋にこもって、調査と執筆に専念しました。とくに資料収集にはたいへんな力を注ぎました。自宅から何度も何度も本を取り寄せたほか、アメリカ、やイギリスの友人たちからも多くの資料を送ってもらいました。パールが裁判の続いた2年数ヵ月の間に読破した資料は4万5千部、参考図書は3千部に及んだといいます。
判決は、被告全員の有罪となりました。日本は共同謀議によって世界征服をたくらみ、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を、1931年(昭和6年満州事変以来十数年にわたって続けたことになります。
この判決には判事国の中からも強い反対の声が上がりました。そのひとつがパール判事の意見書です。
意見書は第一部で「刑罰は法律に基づくべきである」と、その基本的な立場を表明したうえで、5点の検証を行っています。「満州事変以降の戦争全部が侵略戦争といえるのか」「検察側のいう共同謀議は本当にあったのか」などです。
パールは戦争中、日本が多くの厳密な意味での「戦争は犯罪」、例えば捕虜の虐待、非戦闘員の殺戮、放火、略奪などをしたことを認めます。しかし、検察側のいう「平和にたいする罪」「人道に対する罪」は認められないと言います。第一、国際法上そのような罪をさばく法律は存在しなかったのです。意見書の最後でパールはこう言います。「戦争がただ勝者であるという理由だけで敗者をさばくことはできない」