ラバウル海軍航空隊(永遠の0より) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=G_2wWasbmQg
人のための苦難 片山 日出雄
1947年10月23日午前7時に、ニューブリテン島のラバウルで二段構えの8人の銃殺隊の前に倒れた一人の軍人がいました。片山 日出雄大尉です。彼は、ラバウルに勤務していたようです。第二次世界大戦が終わって、復員して、結婚生活を楽しんでいたさなか、1946年2月9日(終戦の翌年)、米軍総司令部から出頭命令を受け、巣鴨に収監されました。その後、沖縄に移され、フィリッピンに移され、さらにモロタイ島に移されました。2月25日、そこで軍事裁判にかけられました。わずか3日後の2月28日に、銃殺刑の判決を受けました。彼には、まったく覚えのない罪の結果でした。
オーストラリヤ空軍のハドソン基地を発進した爆撃機が、日本軍に撃墜され、乗組員4人が捕虜になりました。その捕虜を銃殺した責任者として裁かれたのです。彼は無実を訴え続けました。ふつう、銃殺刑の判決が出ると、翌日に執行されるのだそうですが、彼の場合には、不思議なことに、処刑されたのは、翌年の10月23日でした。一年半以上生き延びたことになります。
http://fukuinn.info/txtPage/030323.html
アンボンで何が裁かれたか ウィキペディア(Wikipedia) より
『アンボンで何が裁かれたか』(原題:Blood Oath/Prisoners of the Sun)は、1990年制作のオーストラリア映画。
太平洋戦争中の1942年にオランダ領東インド(現・インドネシア)アンボン島で起きた日本軍による連合軍捕虜虐殺事件に関する軍事裁判を描いた作品。
無名時代のラッセル・クロウが端役で出演している。
【あらすじ】
太平洋戦争終結後の1945年12月、オーストラリア陸軍法務部は、戦中にオランダ領東インド(現・インドネシア)アンボン島で起きた日本軍による連合軍捕虜虐殺事件に関する軍事裁判を開廷した。
検察官のクーパー大尉は、当時の最高司令官だった高橋中将と収容所長の池内大佐を事件の首謀者として断罪する事を求めるが、アメリカ軍の圧力により高橋中将は無罪となり、池内大佐は自決してしまう。
最終的に裁判を受ける事になったのは、上官の命令で処刑を実行した田中中尉だけとなった。クーパー大尉は彼がスケープゴートとして処刑される事になるのを承知で、苦渋の決断で求刑するのだった。
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『昭和史の謎を追う 下』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
BC級戦犯たちの落日――アンボンで何が裁かれたか (一部抜粋しています)
1991(平成3)年の4月にかけて、東京と大阪のアート・シアターで「アンボンで何が裁かれたか」(Blood Oath, 1990)という変った題の映画が上映された。
第二次大戦後のアンボン法廷におけるBC級戦犯の軍事裁判を題材にしたオーストラリア映画である。重い主題のせいか、本国でも一時は上映を危ぶまれたというが、試写会の段階から好評が伝わり、静かなブームを呼んだ。
アンボン裁判の関係者には5度も映画館へ足を運んだ人もいると聞くが、たしかにこの映画は通り一遍の通覧ではつかみきれぬ戦争犯罪の多様な側面を描き出していると感じた。
筆者も秀れた芸術作品が持つ陶酔力にひたりながら、「裁く立場と裁かれる立場」「法と現実」「人間性の祟高と邪悪」といった未解決の課題に思いをはせた。それはBC級裁判全般に共通する課題であり、アンボン裁判を素材としたこの映画は、いわば象徴的次元にまで高めたアピールではないかと思った。
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生き残り捕虜たちの憎悪を反映して、起訴された者は飛行士処刑を合せると100名を超えたが、最終的には死刑13名、有期刑43名の結末となった。しかしここへ落着するまでには、日豪双方の複雑な思惑やかけひきがからんだ。
山県、安藤の2人がすでに故人となっていたので、豪州側は、「犠牲の羊」を次等幹部士官から選ばざるをえなかったが、すべての書類が焼かれていたため。各件ごとの命令伝達ルートを確認するのは困難であり、実際にもこの種の命令は電話か口頭によるものが多かったから、水掛論になりがちだった。
責任の所在をめぐる最大の争点は、艦隊の参謀に命令権があるかとうか、指揮機構である艦隊や根拠地隊と実働部隊である20警の権限の分界であったが、途中で白水司令、宮崎副長は、権限論争に見切りをつけ、2人で全責任を負う決心を固めた。それでも旧20警隊員一同にあてた「アンボン事件の真相」と題する白水の遺書では、責任を回避した一瀬中尉(無罪)や川崎大佐に対する不満を洩らしている。ラバウルでは、20警の服役者たちが川崎を責めて袋叩きにする場面もあった。
しかし、「参謀長に命令権はない」と言い張った岡田少将の言い分は通らず、岡田は白水・宮崎の2人に前後して処刑されてしまう。いくつかの飛行士処刑でも、責任問題の所在は同様であったが、映画のモデルとなった片山ケースでは、片山たちが「命令者」として証言した川崎大佐が有期刑にとどまり、実行者である士官の片山、高橋(西田は死亡)、兵曹長の植村(吉崎への命令書)が極刑となり、下士官の吉崎は無罪となった。
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片山中尉の戦場心理は、彼の日記からは窺い知れないが、ラバウルの収容所では得意の英語を生かして豪軍当局との渉外事務に活躍、光教会を主宰してキリスト教伝道にも当る。
その人柄に感銘した今村大尉が豪州側になんとか助命をと申し入れたが、いったん認めた実行責任はどうにもならなかったのか、ラハ事件の畠山陸戦隊長が減刑された同じ日に本国から銃殺命令が届いた。
片山が拘留中に心魂早々の妻へあてて書いた日記体の書簡集は、のちに『愛と死と永遠』の標題を付し印刷されている。別に日本人戦犯に対する豪州兵の虐待ぶりを弾劾した「ラバウル戦犯の真相」(Lamentation of the Nations)と題する英文の上申書もある。
悟りきったようでも、ゆれつづけた彼の心境をしのばせるが、最終的には自らの死を「殉教の死」と意義づけている。