じじぃの「人の死にざま_1599_谷・寿夫(南京事件・陸軍軍人)」

谷寿夫

京城周辺地図

谷寿夫 ウィキペディアWikipedia) より
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。
岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)を経て、陸軍士官学校(第15期歩兵科)、陸軍大学校(第24期)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。
第二次世界大戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。

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プライムニュース 「南京事件とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証」 2015年11月12日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、藤岡信勝拓殖大学客員教授)、山田朗明治大学教授)
中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
【30万人虐殺と犠牲者数】
・南京裁判(昭和21年、南京軍事法廷) 30万人以上
東京裁判(昭和21〜23年、極東国際軍事裁判) 20万人以上
山田朗、「犠牲者数は十数万人を下らない! 根拠は埋葬記録や揚子江に流した数千人を合せた数字だ」
秦郁彦、「犠牲者数は4万人。捕虜殺害が3万人、民間人殺害が1万人。根拠は日本陸軍の戦闘記録に推計を加えた。中国側が発表した一番古いので4万人としている」
藤岡信勝、「虐殺はなかった。根拠はいろいろある。一例として、中国国民党は1937年12月1日から1938年10月24日に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったとか捕虜の不法殺害があったとは言わなかった。記者からも、そのような質問は全く出なかった」

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『マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行
中国人がいまでも憎む8人の日本人 より
いまでも中国人が許すことのできない歴史上野日本人がいる。すべて戦争に絡んだ人物だ。雑誌の特集ネタにもなっている。
伊藤博文
大山巌
昭和天皇
東條英機
・岡村寧次
・谷寿夫
 南京大虐殺の責任者。第二次世界大戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決を受け、銃殺刑となっている。
・石井四郎
土肥原賢二

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南京事件―「虐殺」の構造』 秦郁彦/著 中公新書 1986年発行
検証――南京で何が起きたのか(上) より
1回の集団殺害では最大規模とされながら、今なお謎をはらむ幕府山捕虜の惨劇の主役は、第十三師団の山田支隊(歩一0三旅団長山田栴二少将指揮)である。
支隊は上海の激戦で損耗して兵力は2千人前後しかなかったが、12月11日南京への前進を命令されたので、翌日鎮江を出発、13日鳥龍山砲台、14日朝に幕府山砲台を占領した。ドイツ式の近代的砲台だという情報もあったが、実際には工事未了で守備兵は退路を断たれるのを恐れてか、いち早く後退していたので、抵抗らしき抵抗はなかった。
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第六師団と並んで南京城の南面を攻めた第百十四師団は、宇都宮で編成された特設師団で、歩兵一二八師団、歩兵一二七師団と特科部隊から構成されていた。歩六六の例で見ると定員2909人、平均年齢37歳の召集兵が主力で、幹部でも現役は連隊長、大隊長だけ、中隊長以下は全員が応召者だった。しかし満州事変に参加した歴戦の士が多く、戦闘力はほかの現役師団に比べ決して劣らなかった、と郷土部隊史の『野州兵団の軌跡』は強調している。事実、この師団は南京城では雨花台の攻防戦で果敢な戦闘ぶりを見せ、500人近い死傷者を出している。
歩一0二連隊の手で雨花台上に日章旗がひるがえったのは12月12日午後2時で、退却した中国兵は中華門から城内へ逃げ込み、門を固く閉じた。逃げおくれた敗残兵は、門外に散在する部落にたてこもり抵抗したが、歩六六連隊第一大隊が突入して3時間近い白兵戦ののち、抵抗をあきらめた敵は白旗をかかげて降伏した。
第一大隊の戦闘詳報によると、最初の捕虜を伝令に使って、「投降すれば助命する」と伝えたところ、ぞろぞろと出てきたもので、総数は1354人を数えた。この捕虜は蒋介石直系の八十八師らしく、「装備兵、手榴弾豊富」で、雨花台の猛抵抗もさぞかし、と思われたが、目撃した藤沢藤一郎上等兵の回想では、半数以上が民兵だったらしいという。
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捕虜の処分を終えた第一大隊は、13日夜9時本隊を追って城内に入り、その後は掃蕩任務も課せられず、数日休養して19日新任地へ向かう。師団はすでに湖州地区の警備任務を指示され、入城式と慰霊祭に参列する選抜隊を除き、主力は16日から南京を離れつつあった。
第百十四師団でも、歩六六以外の舞台については、確実な記録がないため明確を欠くが、やはり若干の捕虜を処刑した話が伝わっている。
第六部師団長の軍事裁判に提出された300件以上の残虐行為は、殺害だけで1万を越え、場所は雨花台と中華門内外に集中している。かなりの数的誇張はあり、戦闘行動とも混交もあろうが、場所的には百十四師団の行動区域に当たっている。