じじぃの「人の死にざま_1600_石井・四郎(731部隊・陸軍軍医)」

石井四郎の戦後 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x4ijcxf
石井四郎 ウィキペディアWikipedia) より
石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究、人体実験を主導した。
千葉県山武郡芝山町(加茂)の旧家主、父・石井桂と母・千代の間に四男として生まれる(長男・彪雄は日露戦争で戦死し、次男・剛男は陸軍嘱託、三男は陸軍技師として後に731部隊隊長となる)。
少年期より秀才ぶりを発揮し、県立千葉中学から金沢の四高を経て、京都帝国大学医学部を首席で卒業後、細菌学、衛生学、病理学の博士号を取得した。
戦後石井はGHQと交渉し、部隊の全データ提供と引替えに自分自身をはじめとする731部隊関係者の戦犯免責を実現させている。 その後、新宿区内で医院を開業し、近隣の住民が怪我や病気になると無償で診察、治療を行ったという。晩年にはキリスト教に入信した。

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『マスコミより確かな 習近平の言い分』 孔健/著 三五館 2015年発行
中国人がいまでも憎む8人の日本人 より
いまでも中国人が許すことのできない歴史上野日本人がいる。すべて戦争に絡んだ人物だ。雑誌の特集ネタにもなっている。
伊藤博文
大山巌
昭和天皇
東條英機
・岡村寧次
・谷寿夫
・石井四郎
 満州に拠点を置いて細菌戦の生物兵器の研究をしていた陸軍軍医。通称731部隊の責任者。
土肥原賢二

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昭和史の謎を追う(上)』 秦郁彦/著 文春文庫 1999年発行
日本の細菌戦(下) (一部抜粋しています)
常徳作戦に加わった石井部隊航空班の某は、高杉晋吾の質問に対し、次のように説明している。
ペスト菌散布は本当だったと申しあげましょう。小麦や米の木綿の詰め物は蚤床といって、まあ蚤の巣ですね。だからそうしたものがまかれたというこの<チェン博士の>リポートは正確です。空から蚤を裸のままいても百メートル落下すると満腹状態ではピチッと潰れますからね。……それから蚤が満腹では吸い着かないから飢餓状態にしてある(高杉『七三一部隊細菌戦の医師を追え』)。
加害者と被害者の観察がこんなに細部まで合致する例は珍しいが、どうやら日本軍は、中国の情報網と医療技術を軽視しすぎていたようである。病原菌を直ちに突き止め、有効な防疫手段を講じ、被害を僅少に食いとめた中国側は、重慶の各国大使を通じ連合国に警報を流し、国際世論に働きかけた。公表はされなかったものの、その反響は意外に大きかった。アメリカが日本の731部隊の存在に気づき、細菌戦に対抗する研究機関のフォート・デリトックを創設(1943年4月)したのは、この重慶情報が引き金になったことが判明している。
すでに1942年6月6日、ルーズベルト大統領は、「日本がかかる非人道的戦法を中国あるいは他の連合国に対して使用しつづけるなら、米国に使用するものと見なし、全面的報復措置をとることになろう」と警告していた。ここにいう「非人道的戦法」とは、以前からひんぴんと伝えられていた毒ガス戦を指していたが、細菌戦についてもアメリカが同様の決意を持っている、と日本が想定したのは当然だろう。
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第十三軍司令部が作成した「せ号作戦経過概要」によると、戦死1284名、戦傷2767名、戦病(入院患者)1万1812名とある。一見してわかるように戦闘の死傷者に対し、戦病者の数が異常に多い。1万人の入院患者のうち、1700人(一説だと3千人)が死んだともいう。
第二二師団の先頭大隊長として従軍した都甲少佐の回想によると、1500人の兵士の大多数がマラリアにかかり、一時は健康者が大隊長を含め4人にまでなった。他にも栄養失調、赤痢コレラ患者が出たが、急に発動された作戦だったため補給の準備がつかず、食糧は現地調達主義で進撃したせいでもあった。
それを補うつもりか、第十三軍は「化学戦資材ノ使用ヲ奨励シ、特ニ第二十二師団正面ニ於テ最モ有利二使用ス」と指示している。
「化学戦資材」とは通常は毒ガスを指すが、この場合は細菌攻撃もふくんでいた。第十三軍の反転撤退は8月20日に始まっているが、直前に石井少将が衛州の司令部に到着して、沢田軍司令官と協議した。同席した三品隆以中佐参謀のハバロフスク証言によると、石井がつれてきた3人の軍医が、南京防疫給水部の隊員と一緒に残り、ペスト蚤をばらまいた。
敵味方の接点を行動するので、任務は決して安全とはいえなかった。伊藤邦之助軍医大尉の率いる十数人の班は、夜陰にまぎれペストねずみを放ち、スイカなどにペスト菌を注射してまわっている時、川を渡って前進してきた中国軍の先兵とぶつかり、あわてて逃げたと班員の中山政吉技手は回想する。
衛生兵として参加した古都良雄の証言によると、彼の班は玉川周辺でチフスとパラチフス菌の入った水筒を、貯水池、河川、井戸、家屋に投げ込み汚染した。また3千人の中国兵捕虜に、細菌入りの饅頭を持たせて釈放するとか、ビスケットをばらまくといった児戯にひとしい謀略も試みたようだ。
中国の公式戦史には、日本軍が「毒気」(毒ガス)を頻用した記事は出てくるが、細菌戦には触れていない。
戦後、台湾大使館の招宴で、都甲元大隊長がうっかり細菌使用をしゃべって気まずい空気になったところ、誰かが、われわれは胃袋が丈夫だから何ともなかった」ととりなしてすんだくらいだから、たいした効果はなかったと考えてよさそうである。