じじぃの「人の生きざま_482_ヘンリー・ストークス(南京事件)」

【GoHooインタビュー】「南京大虐殺」否定説の真相/ベストセラー著者ヘンリー・ストークス氏に聞く(ショートバージョン) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HSkj18t__zE

南京大虐殺なかった」と無断加筆 共同通信誤報に翻訳者が反論 (アジア情勢)  週刊SPA! 2014年5月14日 Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/riyuu_ka_hakuyuu/56303534.html
南京大虐殺は本当か その3〜中国国定教科書の歪曲ぶり〜 2012年03月31日 BLOGOS
「昭和史(2004年、平凡社)」で著者の半藤一利氏は、1987年に偕行社から出された「南京戦史」の記録、「中国捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6000人、一般市民の死者約1万5760人」が一番公平なものと思われると書いている。
そして、「この人数のどれだけが、戦闘行為による死か虐殺に当たるかまでは記していないが、これら全てが、いわゆる不法行為によって殺されたとすれば、3万人強がその数ということになると思われる」としている。
http://blogos.com/article/35413/
ヘンリー・スコット・ストーク ウィキペディアWikipedia)より
ヘンリー・スコット・ストークス(Henry Scott Stokes,1938年6月15日 - )とは、イギリス出身のジャーナリスト。息子はタレントのハリー杉山。
1938年サマセット、グラストンベリー生まれ。1961年オックスフォード大学修士課程修了後、1964年来日、フィナンシャル・タイムズ(1964年 - 1967年)、タイムズ(1967年 - 1970年?)、ニューヨーク・タイムズ(1978年 - 1983年)の東京支局長を歴任。
著書『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(2013)において、「南京大虐殺」否定の文言が無断で加筆されたとの報道をめぐり、インタビューに応じた-。報道は共同通信が2014年5-月8日に配信し、東京新聞などが掲載したほか、The Japan Timesでも英文版が掲載された。
【著書】
・『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』 (祥伝社新書) 2013.12

                            • -

『子供たちに伝えたい日本の戦争 - あのときなぜ戦ったのか』 皿木喜久/著 産経新聞出版 2014年発行
指揮官遁走で中国兵は混乱 南京事件、市民の被害はゼロ? (一部抜粋しています)
上海制圧後、上海派遣軍と新たに攻撃に加わった第十軍とで中支那方面軍が編成され、松井石根大将が総司令官となる。松井はもともと国民政府の首都、南京を攻めるべきだとの考えだった。しかし兵の疲労もあり時間を置いた方が良いと判断していた。
南京の陸軍参謀本部も、このあたりで国民政府との交渉に持ち込むべきだとの考えが強く、軍を嘉興と蘇州を結ぶ南北ラインの東側にとどめるとした。
ところが制圧からまだ1週間の11月19日、第十軍がこのラインを越え、南京に向け進軍を始めてしまった。「敵がバラバラになっている今こそ、南京を落とす唯一のチャンスだ」というのが、柳川平助軍司令官らの考えだった。
松井は当初これを抑えようとしたが、第十軍はもう、嘉興から湖州、栗陽など太湖の南側を通るルートで「快進撃」を続けており、止められない。
結局松井が参謀本部に南京攻略の許可を求め、これを追認する。東京の大本営も12月1日、正式に南京攻略を命令することになった。満州事変以来の陸軍の命令系統の乱れもまた、南京戦を生んだ要因のひとつといえる。
一方の南京もこの時期、混迷していた。国民政府の蒋介石主席は防衛戦に消極的で、南京を放棄して「開放都市」として国際管理に任せる案もあった。それなら日本軍も攻撃できないからだ。
ところが軍の重鎮である唐生智が徹底抗戦を主張したため、蒋介石は彼に南京の守備を任せ、7日には夫人とともに南京を脱出、重慶に向かってしまった。
南京に迫った日本軍は9日、飛行機から降伏勧告文をまき、回答がないとみると、10日一斉に攻撃を開始した。中国側も反撃を繰り返したが、肝心の唐生智も、12日夜、長江を渡って脱出する。
このため南京城内の中国兵はいっそう混乱に陥る。退却しようとする中国兵を、別の部隊が殺害するという事態も生じた。さらに多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て便衣(平服)に着替え、城内に設けられた安全地帯に逃げ込んだ。
安全地帯は日本軍の攻撃を前に南京在住の外国人(主に欧米人)が、一般市民の避難のため設けた難民地区である。縦3・2キロ、横1・6キロほどの広さだった。
日本軍は13日までにほぼ全門を制圧、城内に入った。一般市民の多くは、城外や安全地帯に避難し閑散としていた。だが安全地帯では逆に「便衣兵」たちが抵抗の姿勢を示した。
日本軍は14日あたりから掃討戦を行い、便衣兵と見るとその場で殺害したとされる。なお便衣兵のように一般市民を装って戦闘に参加することは、戦時国際法のハーグ陸戦法規で禁じられていた。
さらに城内外の局地戦で日本軍に捕まり、正当な裁判も経ずに殺された捕虜もいたという。
こうしたことが後に欧米のジャーナリストを通じ「南京大虐殺」として報じられ、戦後の東京裁判でも松井らが罪に問われた。
しかしその数については現在でも中国当局や日本の研究者らの間で大きな差がある。特に便衣兵ら戦闘員以外の一般市民の被害については、信用できる証言は少なく、日本側では「ほぼゼロに近い」と否定的見解が多い。
さらに『戦争とは何か』という本で「大虐殺」を報じた英国のジャーナリスト、ハロルド・ティンパーリーについては、中国国民党の中央宣伝部との繋(つな)がりも指摘され、中国側により意図的に誇大に宣伝されたと言っていい。
それでもこの南京攻略が、中国はもとより、日本の中国利権独占を警戒する米、英など欧米を「反日」に駆り立てることになったことも事実だ。
欧米人の「南京」
陥落当時の南京には米国、英国などの新聞記者、学者、宣教師らが多かった。彼らは陥落とともに次々と脱出してゆき、その「伝聞」情報から日本軍の「大虐殺」説が広まった。このため欧米では今でもこれを信じ込んでいる人が多い。
しかしザ・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめた英国人のヘンリー・ストーク氏は、近著『連合国戦勝史観の虚妄』で、史料を調べなおしたうえで「大虐殺」を「情報戦争における謀略宣伝だった」と断じる。南京の欧米人は中国国民党の中央宣伝部に取り込まれていたとみている。