じじぃの「人の死にざま_1597_長・勇(南京事件・陸軍軍人)」

映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU&list=PL7300D30EF61B66D3
長勇

南京 幕府山捕虜

長勇 ウィキペディアWikipedia) より
長 勇(ちょう いさむ、1895年1月19日 - 1945年6月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
【経歴】
福岡県糟屋郡粕屋町出身。農業・長蒼生の長男として生まれる。中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。
1937年(昭和12年)8月、上海派遣軍参謀として出征。中支那方面軍が編成された時には、方面軍の参謀を兼務する。同年12月朝香宮鳩彦王指揮下の情報主任参謀として、南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根中支派遣軍司令官に窘められたとの逸話がある。
1942年(昭和17年)7月、兼軍務局付となり、第10歩兵団長、関東軍総司令部付、参謀本部付を歴任。1944年(昭和19年)7月、沖縄防衛を担当していた第32軍の参謀長に就任。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進む。沖縄戦を戦うがアメリカ軍に追い詰められ、1945年6月23日(22日とする説もある)摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。

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プライムニュース 「南京事件とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証」 2015年11月12日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、藤岡信勝拓殖大学客員教授)、山田朗明治大学教授)
中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
【30万人虐殺と犠牲者数】
・南京裁判(昭和21年、南京軍事法廷) 30万人以上
東京裁判(昭和21〜23年、極東国際軍事裁判) 20万人以上
山田朗、「犠牲者数は十数万人を下らない! 根拠は埋葬記録や揚子江に流した数千人を合せた数字だ」
秦郁彦、「犠牲者数は4万人。捕虜殺害が3万人、民間人殺害が1万人。根拠は日本陸軍の戦闘記録に推計を加えた。中国側が発表した一番古いので4万人としている」
藤岡信勝、「虐殺はなかった。根拠はいろいろある。一例として、中国国民党は1937年12月1日から1938年10月24日に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったとか捕虜の不法殺害があったとは言わなかった。記者からも、そのような質問は全く出なかった」
昭和12年12月16日 日本軍兵士の日記より】
・二万の内三分の一、七千人を今日揚子江湖畔にて銃殺・・・
・五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺・・・
反町理、「2つの日記に書かれていることについて、どう思うか」
秦郁彦、「幕府山(南京郊外の山)の近くで、これは朝日新聞が1万4000人と端数まで書いている。ようするに1万4000人がすし詰めになって、明日の飯をどうしよう、と言って日記に書いている。これは南京の城内から逃げ出してきたのがたくさんいて、この中に兵隊は半分もいなかったと思う。老若男女いろいろいた。これをどうしようということで、十三師団の松井司令部に電話をかけた。松井司令官は釈放しろと言った。これは中国兵は無理矢理兵隊にさせられた。釈放すればそれぞれ幟(のぼり)を立ててそれぞれの故郷に行ってしまう。この意見が有力だった。ところが上海戦では中国軍が精鋭部隊が出て戦った。松井司令官は釈放しろと言ったが、そこにいた長勇という有名な暴れ者の参謀がいて、やっちまえ、と電話で怒鳴った。だから命令違反です。長勇はそれを俺は何万人も殺したと自慢した」
反町理、「それは兵隊だけでなく、民間人も殺したということか」
秦郁彦、「そういうことです。もう少し数を増やして」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_1
南京事件―「虐殺」の構造』 秦郁彦/著 中公新書 1986年発行
検証――南京で何が起きたのか(上) (一部抜粋しています)
1回の集団殺害では最大規模とされながら、今なお謎をはらむ幕府山捕虜の惨劇の主役は、第十三師団の山田支隊(歩一0三旅団長山田栴二少将指揮)である。
支隊は上海の激戦で損耗して兵力は2千人前後しかなかったが、12月11日南京への前進を命令されたので、翌日鎮江を出発、13日鳥龍山砲台、14日朝に幕府山砲台を占領した。ドイツ式の近代的砲台だという情報もあったが、実際には工事未了で守備兵は退路を断たれるのを恐れてか、いち早く後退していたので、抵抗らしき抵抗はなかった。
幕府山を占領下とき、周辺でぞろぞろと大量の捕虜が投降してきた。鈴木明氏が発掘した山田旅団長メモは、「当公平莫大で始末に困る」とあり、正確な人数は記していないが、12月17日の『朝日新聞』は、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」の見出しで次のように伝えている。
 「[南京にて横田特派員十六日発] 両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊(いささ)か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の 少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ付近の兵営に押込んだ。一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ……一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった」
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鈴木明氏が山田元少将から聞いたところによると、この間に軍司令部から憲兵将校が見まわりに来たので、案内して捕虜の大軍を見せ、「君これが殺せるか」というと、クリスチャンのその将校はうなずいて帰って行ったが、別に軍司令部の参謀から支隊長へ強く、「始末せよ」と電話で連絡してきた。この参謀は上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀の長勇中佐だったと推測しているが、それを裏書きする材料は2つある。
 「12月18日、第六師団から軍の情報部に電話があった。
 『下関に支那人約12、3万居るがどうしますか』
 情報課長、長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。
 ところが約1時間ぐらい経って再び問い合わせがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」
もう1つは、昭和13年春、長が田中隆吉に語った次のような「告白」である。
 「鎮江付近に進出すると……退路を絶たれた約30万人の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた……(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電信に依り伝達した。
 命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかつた」    (田中隆吉『裁かれる歴史』)