じじぃの「人の死にざま_1199_松井・石根」

松井石根 - あのひと検索 SPYSEE
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映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AAJhJnYH7yU&list=PL7300D30EF61B66D3
【超限戦】報道スペシャル−中国プロパガンダ写真の真実[桜H24/2/4] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_djUwHFV0yE
プライムニュース 「南京事件とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証」 (追加) 2015年11月12日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、藤岡信勝拓殖大学客員教授)、山田朗明治大学教授)
中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
昭和12年12月16日 日本軍兵士の日記より】
・二万の内三分の一、七千人を今日揚子江湖畔にて銃殺・・・
・五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺・・・
反町理、「2つの日記に書かれていることについて、どう思うか」
秦郁彦、「幕府山(南京郊外の山)の近くで、これは朝日新聞が1万4000人と端数まで書いている。ようするに1万4000人がすし詰めになって、明日の飯をどうしよう、と言って日記に書いている。これは南京の城内から逃げ出してきたのがたくさんいて、この中に兵隊は半分もいなかったと思う。老若男女いろいろいた。これをどうしようということで、十三師団の松井司令部に電話をかけた。松井司令官は釈放しろと言った。これは中国兵は無理矢兵隊にさせられた。釈放すればそれぞれ幟(のぼり)を立ててそれぞれの故郷に行ってしまう。この意見が有力だった。ところが上海戦では中国軍が精鋭部隊が出て戦った。松井司令官は釈放しろと言ったが、そこにいた長勇という有名な暴れ者の参謀がいて、やっちまえ、と電話で怒鳴った。だから命令違反です。長勇はそれを自慢して俺は何万人も殺したと自慢した」
反町理、「それは兵隊だけでなく、民間人も殺したということか」
秦郁彦、「そういうことです。もう少し数を増やして」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_1
松井石根 ウィキペディアWikipedia)より
松井 石根(まつい いわね、明治11年1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
南京事件 (1937年) ウィキペディアWikipedia)より
南京事件は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。
【戦後の軍事裁判における扱い】
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

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『隠された昭和史 天皇の陰謀』 デビッド・バーガミニ/著、いいだもも/訳 現代書林 1988年発行
南京大虐殺 (一部抜粋しています)
朝香宮は12月5日の日曜日に飛行機で東京を立ち、3日後、前線に指揮をとるために着いた。彼のパリ時代の古い仲間であるサディスティックな中島が、南京の約10マイル南東の、前進野戦司令部近くの、遺棄された中国人の田舎別荘にいるのに彼は出会った。中島は日曜日に左臀に負傷して痛がっていた。中島は彼の以前の保護者の宮に、日本軍が南京周辺のいたるところで中国軍を撃破し、約30万人の中国軍が包囲されようとしており、南京城壁にピン留めされようとしている、と報告した。和議の下交渉では彼等はすぐにも降伏する用意があるといわれていた。この要旨を聞いた後、朝香宮は枯野司令官から彼の個人的な押印による「秘、読後焼却のこと」と記された一連の命令を発した。命令は簡単に「すべての捕虜を殺せ」であった。
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皇叔の朝香宮は、クリスマスの日に彼の司令部を南京に移した。彼は、強姦と殺人が続けられて目盛りのついた化学壜で量られるほどに血が南京市内に滴り落ちた1月の間中ずっと、城内に留っていた。彼が2月10日、最終的に東京に戻るべく出発したのは、占領下の中国人を恐れさせ委縮させる最後の望みが消え去ってしまってから――最後に幼女が暴行された――後のことであった。
上海にいた松井チビ将軍は、毎日、南京の新たな残虐について耳にした。彼は相変わらずそれを止めさせるには無力のままであり、そこで彼は朝香宮の評判について「大変気がかり」であった。クリスマスの日――朝香宮が南京に移ったその日に、松井は『ニューヨーク・タイムズ』の通信人ハレット・アーベント――彼は松井が「好意的」かつ「悲痛」なのでびっくりした――とのインタビューで、彼の気がかりを語った。『ニューヨーク・タイムズ』の紙面を通ずる、この天皇裕仁への間接的な要望がなにか好転をもたらすかもしれないという望みは、きわめて少なかったので、松井は次の日、朝香宮の首脳部にたいするメッセージを送ることによって努力を続けた。彼は書いた。「不法な行動が続いているという噂がある。特に朝香宮がわれわれの指揮官であるからには、軍規と士気はより一層厳格に保たれなければなららい。不正な行為を働いた者は誰でも厳重に罰せられなければならない」。個人的に、松井は新年の祝賀の時、日本人外交官に語った。「私の部下たちは大変悪い、きわめて遺憾なことをしでかした」と、。後に、なぜ部下たちの手綱が利かなくなり、部下たちが凶暴な発作を起こして荒れ狂ったのかと訊かれた時、彼は指摘して行った。「訓練は抜群だったが、指導と態度が良くなかった、と私は考えた」。
松井の抗議にもかかわらず、悪臭の立ちこめた街路に転がる新しい死体につまずいたり、戸口の外で順番を待っている兵隊たちの長蛇の列――その戸口のうちでは何人かの中国人女性がしまいには乗り殺されてしまうわけだが――を見たりすることが、ありふれてどこの場所でも続いていた。市内に残留しているすべての将兵は中島の憲兵によって登録されており、彼らのうちの何人かが、夜の首切りパーティのために毎日の午後、選抜されていたのである。市には、灯も、水も、塵芥処理も、警官も、消防夫もなにも残されていなかった。安全区国際委員会は、朝香宮の本部に対してペストが発生する危険を警告した。朝香宮の幕僚は、安全区の日々の施米によって命を永らえている10万人の中国人の給食を引き受けるという提案でそれに答えてきた。いうまでもなく、この責任を引き受けることで、日本軍は安全区の米倉と国際救援基金を管理することを目論んだのである。安全区委員会はその提案を断った。西洋の新聞が、南京においてなにが起こっているかについての最初の目撃証言を、印刷しはじめつつあった。
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松井は隠退して熱海に彼の神社を建て、朝香宮はゴルフを楽しんだ。名誉を挽回した柳川将軍は、天皇によって占領中国の運営を運営するべく任命され、さらに内閣で法務大臣として仕えるように任命された。彼は最後に、1944年、スマトラの支配者として病気に羅って死んだ。設営専門家の武藤は確実に成り上がって、1939年には少将、強力な作戦部長、1942年には中将、第2近衛師団長、そして後には1944〜45年にフィリピンにおける山下(奉文)の参謀長、となった。顔のひろい鈴木貞一少将――京都において戦野の恐るべき第16師団を指揮する頭脳机上作戦を行った――はつねに軍部における裕仁の個人的な特命代理や紛争解決者としてとどまり、微妙を要する1つの任務からさらに次の任務へと息継ぎの万能の才を発揮した。南京虐殺で自分自身も一番手を汚したサディスティックな中島についていえば、彼は1939年に軍隊から退役することを許可され、南京から持ち帰った戦時利得品で快適な生活をすることを許された。
裕仁はすべての犯罪者に名誉を与え、彼らの誰一人も罰しなかった。そして今日まで彼の血縁である朝香宮と親しい間柄であり続けている。もしも裕仁がその時、朝香宮が皇族の名を汚したと感じたとしても、彼はそのことになんの反応も示さなかった。彼は朝香といっしょにゴルフをすることを続け、水入らずの御家族会議に朝香と同棲することを続けた。もしも裕仁が、朝香宮が南京で彼の軍隊の随従連によって欺かれたか眼を掠められたかしたという感じを抱いたとしても、彼はそのことになんの反応も示さなかった。その逆に、裕仁南京大虐殺の後6ヵ月のうちに、皇族の他の3人の成員を重要な陸軍司令官に任命したのである。
南京の皮肉の頂点は、最後にすべての非難を背負った人間が小さな結核の松井将軍であったということだ。彼は熱海に神社を建てた他の6人の指導者とともに、極東国際軍事裁判によって訴追された。国際法廷の15万ページにおよぶ記録を通じて、虐殺において松井の果たしたとされる重要な役割が、まるで虐殺がもう一度やられ直されてでもいるかのように、見出される。この記録のどこにも、松井が虐殺を実行させる秘密命令を発したという証拠はない。どこにも、連合国の検事が死刑宣告のために松井の誠実さを弾劾したり、1つの虚偽さえも捕まえたことはないのである。
他方では、松井あるいは彼の弁護士によって、彼の中支那方面軍総司令官としての権威が南京において朝香宮の皇室の権威によって越権されたという明確な陳述がなされたこともまたない。そのかわりに法律学年鑑に載った最も混乱した弁護陳述の1つの中で、松井の弁護人は松井が中国―日本の友好について空虚な言い方で陳述するのを許しているが、それは裁判官たちに偽善的であるという印象を与えることができただけだった。松井自身は仏教の敬虔と神秘の輪索(わなわ)の中で傷ついていた。彼は馬鹿馬鹿しく仰々しい常套語の中に自分自身を埋葬した。彼の裁判官たちは自然に、南京蛮行の目撃証言の記録によって強く印象づけられていた。彼らは、彼に許されているのに松井が華中における全面指揮の間に生じた事実になんら適切な弁解をしないのを聴取した時、彼は絞首刑に値すべきであると考えたのだ。松井自身、それに不同意というわけでもなかった。彼は内省の時期をへて、朝香宮天皇を彼がもっと善導しなければならなかったと感じ、いまでは王冠を守るために死ぬことが彼の彼の宗教的義務であると感じたのである。
彼は語った。「私はこの道が終わることを幸福に感じている。物事がこの道から転じてから後というものは、私は本当にいつでも死にたいと説に望んでいた」と。
極東裁判以来日本で陽の目を観るようになった回想、命令書、日記は、松井の物語をさらに証拠立てる傾向にある。これに加えて裁判行為自体が、真理の正当な探求として、解明のために公開されており、それを再見する機会を持ったすべての西洋の歴史家によって探索されてきている。松井の事件で、南京の直接指揮に任じ虐殺の間中ほとんど南京に在って身をもって実際に当たった朝香宮が、弁護人としてはともかく、証人としてさえ法廷に召喚されなかったことは、信じ難い事実である。朝香宮の指揮官としての地位を心得ており、もっと重要でない、多岐靴なほど長い物語をたくさん聴取した裁判官たちが、彼の南京虐殺の話を聞こうと思わないはずはなかったあろう。彼らはそのようにすることを、原子爆弾の投下と日本の降伏の直後に日本で採られた政治的方程式のために妨げられたのである。

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