じじぃの「人の生きざま_462_本多・勝一(南京事件)」

南京大虐殺の真実 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=c7CYCen8HX0
南京陥落当時の貴重な映像(1of5) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8
本多勝一著 「中国の旅」

習近平氏、「大虐殺の否定は許さない」と言明 2014年12月13日 東洋経済オンライン
●<動画>南京で初の「国家哀悼日」式典を挙行
http://toyokeizai.net/articles/-/55827
本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める! 2014年10月30日 JAPAN+
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
http://japan-plus.net/182/
南京大虐殺は本当か その3〜中国国定教科書の歪曲ぶり〜 2012年03月31日 BLOGOS
「昭和史(2004年、平凡社)」で著者の半藤一利氏は、1987年に偕行社から出された「南京戦史」の記録、「中国捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6000人、一般市民の死者約1万5760人」が一番公平なものと思われると書いている。
そして、「この人数のどれだけが、戦闘行為による死か虐殺に当たるかまでは記していないが、これら全てが、いわゆる不法行為によって殺されたとすれば、3万人強がその数ということになると思われる」としている。
http://blogos.com/article/35413/
プライムニュース 「南京事件とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証」 2015年11月12日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、藤岡信勝拓殖大学客員教授)、山田朗明治大学教授)
中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
昭和12年12月16日 日本軍兵士の日記より】
・二万の内三分の一、七千人を今日揚子江湖畔にて銃殺・・・
・五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺・・・
反町理、「2つの日記に書かれていることについて、どう思うか」
秦郁彦、「幕府山(南京郊外の山)の近くで、これは朝日新聞が1万4000人と端数まで書いている。ようするに1万4000人がすし詰めになって、明日の飯をどうしよう、と言って日記に書いている。これは南京の城内から逃げ出してきたのがたくさんいて、この中に兵隊は半分もいなかったと思う。老若男女いろいろいた。これをどうしようということで、十三師団の松井司令部に電話をかけた。松井司令官は釈放しろと言った。これは中国兵は無理矢理兵隊にさせられた。釈放すればそれぞれ幟(のぼり)を立ててそれぞれの故郷に行ってしまう。この意見が有力だった。ところが上海戦では中国軍が精鋭部隊が出て戦った。松井司令官は釈放しろと言ったが、そこにいた長勇という有名な暴れ者の参謀がいて、やっちまえ、と電話で怒鳴った。だから命令違反です。長勇はそれを俺は何万人も殺したと自慢した」
反町理、「それは兵隊だけでなく、民間人も殺したということか」
秦郁彦、「そういうことです。もう少し数を増やして」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151112_1
本多勝一 ウィキペディアWikipedia)より
本多 勝一(ほんだ かついち、1932年1月28日 - )は、日本のジャーナリストである。渡辺昇一は在日を公言している。
南京事件に関する書面による公開討論(現在進行形)】
週刊文春誌上の藤岡信勝の表現「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」を問題視。公開討論を行うことで両者は合意した。
FROM 本多勝一 TO 藤岡信勝
1).30万人説は本多の結論ではなく、姜眼福への聞き取りであることを知っているか。 2).殺害数について、正確な数字はむろん知るよしもない、との編注をご存知か。 3).週刊金曜日の連載で、本多は30万を訂正し20万人に入れかえた、と伝えた。これを読んだか。 4).「裏付けもなく執筆」とはどの部分か。このコメントを使う週刊文春の流れは説明されたか。 5).コメントは正確に掲載されたか。 6).被害者数は何人であると考えるか。
FROM 藤岡信勝 TO 本多勝一
1->姜眼福の証言と知っていた。証言者の言ったことを伝えただけだとしても、「南京虐殺30万」をひろめた責任が免除されるわけではない。。 2->編注は知っている。 3->読んでいない。 4->下記1)3)。下記2)の質問すらしていないなら、中国共産党ののプロパガンダをそのまま伝えたことになり、ジャーナリストとして責任重大。週刊文春がどう書くかは知らなかった。 5->自身の発言部分は、掲載前にファックスで必ず確認している。正確に掲載されている。 6->こう問う以上、あなたは必ず自身の考えを述べ、その根拠を示す義務がある。私の考えは、南京戦はあったが南京事件はなかった。従ってゼロ。

                          • -

『中国の旅』 本多勝一/著 朝日新聞社 1972年発行
――本書によせて――いま戦争責任を追及する意義 森恭三 より
こんど本多君の中国ルポは、かつての日本軍がおかした残虐行為の数々を徹底的に究明するのが目的である。この発想は私自身にも、ずっと以前からあった。私は従軍記者の経験があるが、海軍報道班員としてラバウルを中心に、ブーゲンビル、テニアン、トラック、パラオニューギニア、アンボン、セレベス、ジャワ、シンガポールなどを移動したのと、上海で「朝日」の記者として海外放送を傍受して本社に世界情報を報告していたにすぎないから、私自身、日本軍の残虐行為を一度も実見したことはない。だが、なぜ戦争がおこったのか、その責任はだれにあるのか、その戦争は実際どのようにおこなわれたのか、等々の資料を集めておかねばならぬと考えた。でないと、日本が戦争のあやまちを、ふたたびくりかえすことになりかねない、と考えたからである。
南京事件 より
南京大虐殺として知られる事件が私たち一般日本人に明らかにされたのは、戦後の極東軍事裁判東京裁判)であった。その記録のほかに、断片的な記録はいくつか刊行されている。だが、南京で直接きいた被害者たちの体験は、それまでに私が読んだ限りでの記録から想像していた状況をはるかに越えていた。2日間に4人から取材した中から、まず姜根福さん(43)からきいた当時の一般的状況を説明する。姜さんは南京港務局内河船員として働いており、のちに紹介するように、姜さん自身も悲惨な体験者である。
「1937年12月12日午後4時ごろ、南京に侵入してきた日本軍は、まず城壁の南側の雨花台高地を占領しました。ここにいたるまでに、すでに厖大な住民が殺されています。あくる日13日には、南の城門「中華門」を破って城内に乱入します。このとき国民党の蒋介石軍は10万人以上いました。徹底的に抗戦すれば阻止できたかもしれませんが、かれらは人民を裏切り、民族を侵略軍の手に売り渡してしまったのです」
どのように裏切ったか。たとえば高級将校は、家族を連れてまっさきに城外へ逃げだした。逃げ口は、日本軍がなだれ込んできた南側と反対の、長江に近い「把江門」と「中央門」である。蒋介石軍の主な将校らが逃げだしたあと、この2つの門は締められ、外から錠をおろして交通遮断した。こうしなければ、城内の民衆や敗残兵らが一度に河岸へ殺到し、逃げるための限られた舟を独占できなくなるから。
まもなく、かれらのあとを追って2つの門に大衆が殺到した。門の外からは蒋介石軍の兵隊に交通遮断され、内からは日本軍がなだれ込む。大混乱の群衆や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国軍を襲った。2つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した。
姜さんの説明はつづく、12月14日になると、日本軍は長江に近い2つの門も突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、下関、煤炭港、宝塔橋、草鞋峡と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追出しておいて、機関銃で皆殺しにした。このため川岸は死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった。このときまでに、南京城内も合われて約20万人が殺されたとみられる。
「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます。どこへ行っても空気は死臭で充満していました」と姜さんは語った。
虐殺は、大規模なものから、1人、2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほど続けられ、約30万人(注2)が殺された。
最も普通の殺し方は小銃による銃殺と銃剣による刺殺である。大勢を殺すときは、まず隊列を作らせて、手近な殺人予定地まで歩かせる。着き次第、まとめて機関銃で皆殺しにする。銃剣で生存者がないかを刺してテストしたのち、死体を積上げて石油をかけ、焼いてしまう。
(注2) 南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約30万人というおおざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知るよしもない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実よりずっと少ないとみられている。洞富雄『近代戦史の謎』の分析は、30万人、あるいは34万人説を事実に近いとみている。