じじぃの「人の死にざま_1679_石射・猪太郎(外交官・日中戦争)」

実録 支那事変1/4 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc
本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める! 2014年10月30日 JAPAN+
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
http://japan-plus.net/182/
石射猪太郎
石射猪太郎氏が六代目の駐伯特命全権大使としてリオ駐在を仰せつかったのは、日華事変も進捗した昭和15年(1940)9月14日のことであった。同10月4日に東京を出発して、同11月13日にリオに着任した。
http://www.cenb.org.br/articles/display/197
石射猪太郎 ウィキペディアより
石射 猪太郎(いしい いたろう、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は日本の外交官。
日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。外務省東亜局長(海外の外務省では、次官補クラス)、駐タイ特命全権大使、駐ブラジル特命全権大使を歴任。最終官歴は駐ビルマ特命全権大使

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『どこで日本人の歴史観は歪んだのか』 岡崎久彦/著 海竜社 2003年発行
中国側によって起こされた支那事変 (一部抜粋しています)
それまでの張作霖爆破、満州事変、第一次上海事変、各種の北支工作等の発端となった事件は、敗戦までは支那側の挑発による事件といっていましたが、敗戦後、ことごとく日本軍が仕組んだ事件だったことが白日の下に曝(さら)されています。
ところが、盧溝橋事件を含む昭和11、12年の諸事件には、日本側の秘密工作の気配もなく、東京裁判もこの点は問題にしていません。
中国国民の感情の爆発か、国民党下部の独走か、あるいはもっと可能性の高いものとして、共産党系の戦略によるものなのか、いずれにしても全部中国側からの挑発です。
日本軍の規律、過去における工作の手口から見て、盧溝橋で日本側から発砲した可能性は皆無といえます。
そして、事件発生後、日本側は政府も群も不拡大方針を明らかにし、現地でも停戦協定ができますが、その実地を次々に妨害し、戦争拡大を不可避にしたのは、満州事変の時とちょうど逆に、ことごとく中国側です。
7月26日には、公安門事件があります。それは日本軍が北京城内に還(かえ)ろうとして公安門を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に銃撃を加えた事件で、これでは戦争にならない方がおかしい事件です。
そして8月9日には、上海で大山勇夫中尉が保安隊の一斉射撃で殺されます。上海に飛び火すると、現地の戦力比からいって、在留邦人の生命が危険に曝されるので、その場合、陸軍二個師団派兵が陸海軍の間で決まっていました。
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もっとも、事変を早期に収拾する可能性はありました。
それはまず中国側の戦略が計算ちがいだったからです。中国側は、今度こそは日本に勝って見せるという意気込みで、種々の挑発をしたのですが、やって見ると戦闘力がまるで違いました。
それがわかった時期、つまり、中国が最精鋭を集めていた上海周辺の防衛線が崩れて南京に向いて敗走していた時期が、今から考えて唯一のチャンスでした。
現に、その時点で昭和天皇の御意向もあり、また、参謀本部には石原莞爾、外務省には石射猪太郎東亜局長が中心になって和平を進めました。その内容は、国民党側としても十分受け入れ可能なものでしたが、軍の中の強硬派が石原を追い出し、杉山陸相を突き上げて潰しました。その時、近衛首相も広田外相も軍の意向には無抵抗でした。
この機を失したあとは、支那事変は泥沼となります。
南京事件もその間に起こった事件です。
南京事件はいまだにそれが実在したか否かさえ論争が続いています。
それは、南京事件を取り上げた東京裁判があまりにも、一方的な杜撰な裁判であり、平和時の有能な弁護士から見れば、すべて証拠不十分で却下するのが当然のようなケースだからです。
ただ、通常の占領で起きる以上の規模の越軌(えっき)が行われたことは認めざるを得ません。参謀本部の堀場一雄は「一部不軍紀の状態を現出し、南京攻略の結果は10年の恨みを買い、日本軍の威信を傷つけたり」と書き、石射は「略奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)これが皇軍か」と日記に記し、事件後松井石根将軍は、「お前たちは何ということをしてくれたのか」と歎いたといいます。
どれも本人が、その場で見たわけではないので、裁判次元では伝聞に過ぎませんが、これだけ立派な人々の証言を無視して歴史は書けません。
他方、被害者が2、30万というような数字は、問題外で荒唐無稽です。そんなことは、当時の国共両軍が戦闘の際の相手の虐殺の数と、その残忍さを誇大に報じ合っているのを見れば、宣伝上の数字であることは常識でわかります。そんなものを真実のように取り上げた東京裁判の程度の低さを実証する何よりの証拠です。
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いずれも中国側の当局が逃亡して、占領を受け容れる者がいない事態から生じた混乱の結果ですが、数字は少なくとも1桁違いましょう。
その他、通州事件等の過去の排日侮日運動にたいする鬱憤、これで戦争が終ったと思った気の緩みなどで、ある程度の無礼講、越軌があったことは否定できないようですが、それにしても、暴行まど個人の犯罪行為の民間犠牲者が千単位を越したというのはとうてい考えられません。