じじぃの「人の死にざま_1725_重光・葵(外交官・政治家)」

重光葵

重光葵 コトバンク より
重光 葵(しげみつ まもる、1887〜1957)は外交官・政治家。
大分の生まれ。外務省に入り、ソ連・英国・中国各大使を歴任。東条内閣の外相。極東国際軍事裁判禁錮7年の判決を受けたが、追放解除後、改進党総裁・鳩山内閣外相となった。

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伝えたい日本の心 8月の放送 重光葵 2015年8月3日
今回は戦後70年という事で、日本を戦争から平和に導いた重光葵をご紹介しました。
私自身、重光葵のことを全く知らず、取材を通してたいへん偉大な人物だという事が分かりました。
重光葵は、本当に家族と日本を愛していたんだという印象を受けました。
http://0ensou.blogspot.jp/2015/08/8_3.html
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
瀕死の重傷で停戦協定を結んだ重光葵 (一部抜粋しています)
戦前の日本と中国との間には、戦いを繰り返した不幸な歴史があります。しかし、その中で、友好的な関係を維持していこうと務めた日本人も少なくありません。1931年(昭和6年)に起きた満州事変前後に中国在勤特命全権公使(大使にあたる)を務めた重光葵(しげみつまもる)もその一人です。
満州事変によって、中国の反日感情は激しく燃え上がりました。特に日本人が約3万人も居留していた上海では、暴行事件や排日ストライキが発生するなど、険悪な空気が充満していました。
何とか武力衝突を避けたいという重光の努力にもかかわらず、1932年1月、欧米諸国の軍隊とともに治安維持にあたっていた日本の海軍陸戦隊と、中国軍との間で戦闘が起きてしまいました。第一次上海事変です。
海軍陸戦隊はわずか千人ほど、対する中国軍は数万人の規模です。日本側はたちまち大苦戦に陥りました。このままでは、陸戦隊ばかりでなく、上海に居留する日本人の生命や財産が犠牲になります。重光はやむなく陸軍の応援を要請しました。日本から派遣された陸部隊と中国軍との激しい戦闘は、3月初めまでつづきましたが、中国軍は退却し戦火は遠のきました。
重光は中国軍を追撃中の日本陸軍の司令部に車を走らせ、直ちに戦闘を停止するよう、派遣軍司令官の白川義則大将に直談判しました。けれども勝ち誇った軍隊を押し止めるのは容易ではありません。白川はなかなか首を縦に振りません。
しかし、最後に重光が「っこで平和が回復しなければ、日本の将来は大きな影響を受けるでしょう。天皇陛下もさぞやご心配ではないですか」と迫ると、白川は決心したように姿勢を正し「戦争をやめます」と断言。日本軍の進撃を停止させました。
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次は中国との停戦交渉です。中国の反日感情や諸外国の利害が複雑な上海の事情から難しい交渉でした。重光は中国の立場も尊重する態度で交渉を進め、1ヵ月半ほどの交渉で妥結というところまできました。ところが、停戦協定に書名するまで数日というときに思わぬ事態が起きます。
4月29日、天長節天皇誕生日)の式典が開かれました。重光が白川らと出席したその会場が、朝鮮独立運動家による爆弾テロに見舞われました。白川はこれがもとで後に死亡し、重光も爆弾の破片で重傷を負ってしまいました。特に右足の傷は深刻で、危篤状態に陥ったのでした。
しかし、重光は激痛にうめきながらも「犯人を虐待するな」と注意したというのです。そして、協定に書名することになっていた5月5日、交渉の会場から停戦協定の文書を病室まで運ばせ、自ら署名して、予定通り協定を成立させたのでした。死を覚悟していた重光は、中国側の使節に対し「この文書が将来の日本と中国との親善の出発となることを祈ります」と語りました。中国使節はすぐ交渉の場に引き返し、この重光の言葉を交渉にあたっていた人々全員に伝えました。
この停戦協定はその後、日中両国からともに遵守され、しばらくではありましたが、平和が保たれることになります。