じじぃの「人の死にざま_1709_内田・康哉(政治家・外交官)」

昭和初期の日本(その2) 動画 YouTube
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パシナ形蒸気機関車 「あじあ号」(満鉄) 動画 YouTube
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内田康哉 コトバンク より
内田 康哉(うちだ こうさい(やすや)、1865年9月29日 - 1936年3月12日)は明治・大正・昭和期の外交官・政治家。
1887年帝国大学卒業後外務省に入り、アメリカ合衆国、イギリス、清国在勤後、通商局長、政務局長、総務長官などを歴任。その後、駐清公使、駐オーストリア大使、駐アメリカ大使を務め、1911年第2次西園寺公望内閣の外務大臣に就任した。

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『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
国際連盟を失望させた満州国承認 (一部抜粋しています)
1931年(昭和6年)9月、関東軍と呼ばれた満州(中国北東部)駐留日本軍が独断で軍事行動を起こしました。満州事変の始まりです。
これに対し日本政府はすぐに不拡大方針を決定し、陸軍中央部も制止命令を出します。ところが、関東軍は全く聞き入れず、戦火を満州全土へ拡大させていきました。関東軍がねらっていたのは、満州全土を中国から分離して日本の勢力下に置くことでした。それにより、南満州鉄道など日本が満州の一部にもっていた権益を万全なものにしようとしたのです。
軍事進攻を受けた中国政府はすぐにこれを国際連盟に提訴します。連盟は、この件につき理事会を開催しました。理事会で、中国代表は日本軍の暴虐を告発します。これに対し日本代表は、以前から条約で認められた日本の満州権益に中国側からのたび重なる侵害があっとことを指摘し反論します。ただし、日本権益の安全が確認されたなら、日本軍はもとの所在地に撤兵すると言明しました。この時点では連盟は、外相、幣原喜重郎ら日本政府の事態収拾の能力を信頼し、早期終結を議決して静観の構えをとりました。
ところが、関東軍は連盟や日本政府の意図などこ吹く風という勢いで、戦線を拡大していきます。連盟の権威は著しく傷つけられました。そこで日本側は妥協案を提示します。それは、連盟の調査団を満州を含む中国へ派遣することを要請するものでした。連盟はこの提案を歓迎します。連盟にとってほとんど唯一の事態打開策と思われたからです。この結果、派遣されたのがイギリス人リットン卿を団長とする調査団です。
1932年(昭和7年)3月、ほぼ満州全土を制圧した関東軍は「満州国」を独立させます。その実態は関東軍など日本人が実験を握った傀儡(操り人形)国家でした。ところが、日本政府の外相になっていた内田康哉は、この満州国を独立国として承認してしまいました。しかも、この承認はリットン調査報告書の公表を待たず、無視する形で行われました。
連盟は失望しました。調査報告書は、日本の軍事行動を非難し満州国独立を認めない一方で、日本の満州における権益を認め、その尊重を中国に求めるという、日本にできるだけ配慮した内容になっていたからです。
昭和8年に入ると、関東軍は今度は、満州国の西に隣接する熱河省を攻撃し万里の長城に迫ります。この熱河攻撃により、それまで連盟の中で比較的日本に好意的だったイギリスが警戒感をもちます。熱河はイギリスなど列強の権益が集中する河北省のすぐ隣だからです。また、イギリスは連盟内でこれ以上日本をかばうと中国の怒りの矛先(ほこさき)を自分に向けさせてしまう、という苦しい立場となりました。
こうして、イギリスは調停のさじを投げ、連盟での日本の孤立は決定的となりました。2月、リットン報告を承認した連盟総会の議決を不服として日本代表は議場を退場、3月には連盟に対して脱退を通告します。これは満州における「戦果」を確保すると同時に、連盟と、特にイギリスをこれ以上苦しめないための措置でもありました。
5月、関東軍は中国と停戦協定を結んで満州事変を終結させます。軍からみれば満州事変は「成功」でした。