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ソ連対日参戦:ソビエト連邦軍(T-34/85)V.S.関東軍(九五式軽戦車)
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はじめに より
ウクライナに軍事侵攻したプーチンの残忍無比な蛮行は、まだ4歳だった頃にソ連兵に突きつけられたマンドリン(短機関銃)の恐怖を思い起こされる。
アメリカが日本に原爆を投下すると、一刻も早く参戦して戦後の領土陣取り合戦を有利にしようと、ソ連は145年8月8日になって突如、日本に対して宣戦布告し、やがて長春の街に襲い掛かってきた。
何よりも不安だったのは、私たち日本人を守ってくれるはずの関東軍がいち早く南の通化に逃げてしまい、関東軍司令部が空っぽになっていたことだ。機密資料を焼き捨てるための煙だけが、お城のような形をした関東軍司令部辺りから立ち上がっている。
殺伐とした空気の中、家の前にある興安大路(こうあんたいろ)という広い道路の向かい側にソ連軍のGPU(ゲー・ペー・ウー)という秘密警察署(国家政治部)の急ごしらえの看板が出来上がった。
秘密警察――?
「ゲー・ペー・ウー」という音は不気味な響きで胸に刺さる。
しかし、ゲー・ペー・ウーなどあっても何にもならない。
ソ連兵は、昼となく夜となく民家を襲っては物を奪い女性を犯し、子供さえ平気で殺した。ほとんどのソ連兵の腕には刺青があり、シベリア流刑者番号が彫ってある。
そんな野獣をスターリンは民間人に向けて放ったのだ。
ダワーイ!
私が最初に覚えたロシア語は、「ダワーイ!」だった。家の中に入ってくるがいきなり、マンドリンを突き付けて「ダワーイ!」と叫ぶ。この場合は、「さあ、寄こせ! 言うとおりにしろ!」という意味だ。拒絶すればマンドリンが火を噴く。彼らはマンドリンを言語の代わりとして使った。
1946年が明けると、戦車や日本が「満州国」で作り上げた重機材を満載した大型トラックの列が、興安大路を北へ北へと列をなして長春から去って行った。2階にいても地震かと思うほどの重い地響き。その轟音の後で市街戦があり、私は中国共産党の流れ弾に当たって身障者となってしまった。
やがて1947年に日本人のほとんどが2回目の引き揚げでいなくなると、長春の街から電気が消え、水道からは水が出なくなり、ガスも途絶えた。毛沢東率いる中国共産党軍によって、長春は食糧封鎖されたのだ。餓死者が続出し、家族からも餓死者が出て、1948年9月20日に長春を脱出する前の日に、一番下の弟が餓死した。
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地面は餓死体で埋め尽され、私たちは餓死体の上で野宿させられた。
幸いにして解放区は技術者を必要としており、父が持っていた麻薬中毒患者を治療する薬の特許証のお陰で4日目にチャーズ(卡子)を出ることができたが、その時私は恐怖のあまり記憶喪失になり、言葉を話す能力も失っていた。
あれから74年。私はもう81歳になる。
だというのに、ウクライナでのソ連軍、いやロシア軍の蛮行を目にして、あの時の恐怖が、ふと蘇ってきたのだ。
震えが止まらない。
歯の根が合わず、舌も震えて、骨がガクガクとして、やがて心臓が絞め付けられるように苦しくなり、息が止まりそうになる。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)の期間の長さに打ちのめされた。
震えを止めるために病院に行ってみた。ストレスなので、精神安定剤を服用するしかないと医者は言う。ともかく仕事のし過ぎですから、仕事をやめてくださいと叱る。どうしても薬というなら出すのは出しますが、その代わり眠くなったり、ダラッとしますよ、と医者は脅(おど)してくる。最も重要なはずの思考力も落ちるだろうと言う。
では、そこまで強くない薬で、何とか震えを止めて、せめて心臓が絞め付けられないようにする方法はないのか。
葛藤していた時に、ハッとした。