じじぃの「カオス・地球_245_関眞興・ドイツ史・第2次世界大戦」

【ゆっくり解説】世界の運命を変えた1日|ノルマンディー上陸作戦

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cslyx4HoV4w

ノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)


あの日、世界の命運が決まった。ノルマンディー上陸作戦から75年(画像集)

2019年6月7日 BuzzFeed
第二次世界大戦における「ノルマンディー上陸作戦(D-Day)」の開始日から75周年を迎えた6月6日、フランス北西部ノルマンディーで記念式典が開かれた。
https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/d-day-75th

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国

5 ワイマール共和国からナチスドイツへ

6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

5 ワイマール共和国からナチスドイツへ より

大戦前夜
1937年4月、ナチスはスペインの都市ゲルニカを無差別に空爆し、フランコを支援。ともに国際社会に避難されたことで、イタリアとドイツの結びつきはさらに強化されました。ちなみに、有名な絵画作品「ゲルニカ」は、当時パリにいたピカソが、ナチスによる空爆を知って描きました。この年のパリ万博でスペイン館に展示される作品を描いていたピカソは、急遽(きゅうきょ)この「ゲルニカ」を製作したとされます。

さらにこの年、日本とドイツの日独防共協定にイタリアも参加し、3国協定となります。その後3国同盟を結成したこの3国と、それに味方した国々は「枢軸(すうじく)国」と呼ばれました。

1938年、ヒトラーは陸続きでなく軍事力も侮(あなど)れないイギリスを征服し、ヨーロッパの覇者になることを決意します。反対する将軍を辞めさせ、みずから陸海空軍の最高司令官に就任。3月にはオーストリアを併合しました。これを「アンシュルス(「結合」の意味)」といいます。
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ドイツの勢いを目にしたイギリスとフランスは、ヒトラーの野心を阻止する方針に改め、ドイツが狙っていたポーランドに支援を約束します。

ところで、イギリス・フランスと並ぶヨーロッパの大国であるソ連は、ドイツっと対立する意思はありませんでした。指導者のスターリンは、ポーランドの領有をめぐって悪化していたドイツとの関係改善をめざしていました。ドイツも、この段階でソ連との戦争は望ましくないと考えていました。

1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれます。この条約では両国が東ヨーロッパなどの国々を分割する秘密の約束も交わされていました。

第2次世界大戦の勃発
ソ連との不可侵条約が結ばれた1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻しました。ほどなくソ連ポーランドを攻めます。

あっさり敗れたポーランドは独ソ両国によって分割されました。イギリスとフランスも、ナチスを食い止めるためにドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まりました。

やがてこの戦争に日本、アメリカも参戦し、日独伊対英仏米の対立の構図となります。

フランスは第1次世界大戦での反省から、ドイツとの国境にマジノ線と呼ばれる長大な複合要塞を築いていました。ドイツも攻撃を控え、開戦したにもかかわらず、しばらく戦闘がないという状態が続きました。

ドイツが重視したのは、バルト海でした。1940年4月、作戦・貿易に支障をきたすことや、イギリス軍がスカンジナビア半島にに上陸してドイツ軍の作戦行動を妨害することを避けるため、ドイツは先手を打ってデンマークノルウェーを占領します。続いて、オランダとベルギーを占領し、6月にはマジノ線の背後からフランスを攻撃。ついにパリを陥落させました。

ドイツの占領下に置かれたフランス軍は抵抗せず、ヴィシーを拠点にした対ドイツ協力政府がつくられ、ペタンがその指導者になります。

5月から6月にかけて、北フランスのダンケルクに追い込まれていたイギリス・フランスの約34万人の将兵は退避に成功しました。しかし、カレーにいたイギリス軍は味方を逃すために、ドイツ軍の主力を引きつけて抵抗し、全滅します。

8月から9月には、ドイツ空軍がイギリス本土を爆撃しました。しかし、イギリス空軍の活躍や、ドイツの爆撃機の航続距離などの問題があって、失敗。ヒトラーは、ソ連攻撃(バルバロッサ作戦)を考え始めます。

ソ連が攻めてくる
スターリングラード攻略は最終的に失敗に終わり、1943年2月、ソ連に侵攻していたドイツ軍は降伏しました。このときのドイツ軍の捕虜は約9万6000人。彼らは過酷な労働を強いられ、生きてドイツに帰れたのは約6000人だったといわれます。

勢いづいたソ連軍は独逸領内に侵攻し、東ヨーロッパの占領地などを追われた多くの難民がドイツ内に押し寄せます。

追い打ちをかけるようにその年の5月、イタリアとともに戦っていた北アフリカのドイツ軍も連合軍に降伏しました。北上する連合軍はシチリア島に上陸。さらにイタリア半島に迫(せま)ります。

イタリア国内では親ドイツ派と連合国への協調派が対立し、7月、協調派によってムッソリーニが逮捕されました。後任のバドリオ政権は連合国に降伏。イタリアの協力がなくなったことで、日独伊の3国同盟は崩壊しました。

ソ連に敗れ、アフリカで作戦が失敗し、ドイツは不利な状況に追い込まれます。一方の連合国はヨーロッパ戦線におけるドイツへの反攻作戦を練っていました。

1944年6月、北フランスのノルマンディー海岸にイギリス・アメリカを中心とする連合軍の兵士が上陸しました。総勢は17万6000、艦艇5300隻、航空機1万4000機を動員した「ノルマンディー上陸作戦」です。

ドイツ軍も連合軍が海から来ることは予想していました。しかし、上陸地点が確定できなかったこともあり、苦戦します。2ヵ月にわたる戦いののち、ドイツ軍は敗走。8月には4年2ヵ月ぶりにパリが解放されました。