じじぃの「歴史・思想_256_フィンランド・2度の対ソ連戦争」

Finland Fights On (1940)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LqsqJczmsDE

Continuation War (Finland - USSR

『物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』

石野裕子/著 中公新書 2017年発行

2度の対ソ連戦争――第二次世界大戦下、揺れる小国 より

1939年9月、ドイツのポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦。その間、フィンランドは2度にわたってソ連と戦火を交えた。
フィンランドでは、1939年11月30日から40年3月13日までの最初の対ソ戦を「冬戦争」、41年6月25日から44年9月19日までの2度目の対ソ戦を「継続戦争」と呼び、両者を一連の戦争とみなしてきた。
フィンランドソ連と戦争する意思はなく、戦争に巻き込まれ、独立を維持するためにやむを得ず戦ったと解釈してきた。またこの2つの戦争について、激動の国際政治の流れのなかフィンランドの立場を「流木」にたとえ、戦争する道しかなかったという考えが戦後共有されてきた。
しかし、現在では、2度目の対ソ戦争時、つまり継続戦争ではフィンランドに領土拡張の意図があったことが明らかになっている。
なぜフィンランドは2度も戦ったのか、2度にわたる戦争はどのようなものであったのか、これらの戦争はフィンランドに何をもたらしたのか。以上の観点から2つの戦争を見ていこう。

バルト三国ソ連併合とドイツの接近

1939年11月30日から40年3月13日まで3ヵ月に及んだ冬戦争は、ソ連が13万1000人の犠牲者を出したのに対し、フィンランドは2万4000人であり、フィンランド優位の戦いであった。
犠牲者のほとんどは前線の兵士であり、戦闘は主にカレリア地峡であったため、フィンランド本土は空襲を除けば大きく荒廃することはなかった。しかし、先述したように42万人の避難民が流入し、彼らの住居の確保が喫緊の問題となり、政府はその対応に追われた。
戦争が終わってもフィンランドの危機が去ったわけではない。冬戦争が終結した翌月、つまり1940年4月から6月にかけてノルウエー、デンマークは瞬く間にドイツに占領される。スウェーデンは中立をかろうじて保ったものの、ドイツ軍の領土通過を認めざるを得ない状況にまで追い込まれたていた。6月にはバルト三国、すなわちエストニア、ラトヴィア、リトアニアソ連に併合される。フィンランドの危機意識は高まっていく。
冬戦争では、スウェーデン、イギリスなど、さらには国際連盟も救援の手を差し伸べてくれなかった。その余裕さえ失われていたと言っていい。フィンランドはあらためてスウェーデンとの防衛協定終結を模索したが、ソ連の干渉によって実現しなかった。

戦局転換――戦争からの離脱の決断

1943年2月、戦局が大きく転換する。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗を喫し、戦局が一気にソ連に有利に傾いたからである。
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1944年2月、ソ連軍は首都ヘルシンキを空襲する。これを皮切りにフィンランドへの一斉攻撃を開始し、被害が広がっていった。フィンランドは和平を模索し、翌3月にモスクワで和平交渉を始めた。だがソ連は6億ドルの賠償金とドイツ軍の速やかな排除といったさらなる厳しい要求を突きつけたため、4月にフィンランドは要求を拒否し、交渉は決裂した。
6月6日の連合軍によるノルマンディー上陸作戦の3日後、つまり9日、ソ連軍はカレリア地峡に26万人の兵士を動員し、大規模な攻撃を始めた。ロシア・カレリアに築いた防衛ラインは一気に突破され、駐留していたフィンランド軍は50~80キロ、つまり主要都市ヴィープリの北西まで撤退する。
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9月4日に停戦に漕ぎつけ、19日にはソ連との間で休戦条約が終結され、ようやく戦争は終わった。フィンランド歴史学者ヴェフヴィライネンと百瀬宏によると、ソ連がなぜこの時期に休戦に応じたか決定的な史料はない。ソ連にとって主たる課題はナチス・ドイツの殲滅であり、対フィンランド戦闘に当てていた精鋭部隊を中欧で戦われている対独戦争に投入したかったためだとする。またフィンランド亡命政権スウェーデンに樹立されるよりは、親ソ的な政権がフィンランドにできることが得策と考えたのである。休戦条約についての詳細は次章で述べよう。
継続戦争におけるフィンランドの犠牲者は、不明者を合わせると6万6000人で、負傷者は14万5000人に及んでいた。