Akateemisen Karjalaseuran marssi [AKS March] [English and Finnish lyrics]
Akateeminen Karjala-Seura (AKS)
揺れる独立国家フィンランド――内戦~1930年代 より
1917年12月6日、フィンランドはロシアからの独立を宣言し、年末にはロシアのボリシェビキ政権も独立を承認した。だが、国内では「持てる者」と「持たざる者」の分裂が埋まらず、国民同士が殺し合う内戦へ発展する。
フィンランドの内戦にはドイツ人、ロシア人、スウェーデン人といった外国勢力も加わり、また、第一次世界大戦末期という状況が重なり、さまざまな思惑が絡み合う戦いになっていった。
内戦の火種は、19世紀末の「ロシア化」政策に対して、資本家と労働者の対応の違いにあった。第2章で触れたように、1899年の2月宣言の撤回を求めた1905年の大ストライキでは、指導者側であった資本家たちはフィンランドにおける政体法の回復を要求していた。それに対して労働者の支持を集めていた社会民主党は、時代に合わなくなった身分制議会改革の要求をさらにしていた。要求の差異から両者の間で緊張が高まり、zrン社が自衛隊、後者が赤衛隊と呼ばれる自警団を結成する。
カレリア学徒会
1920年に就活したタルトゥ条約で、ロシア・カレリアでは自治が認められたが、ソヴィエト・ロシアが条約を反故にし、ロシア・カレリアはソヴィエト・ロシア連邦下の自治共和国となった。その中枢にいたのが内戦で亡命した赤衛隊の幹部らであった。
カレリア学徒会(Akateeminen Karjala-Seura、略称AKS)はそれらに激怒した東カレリア遠征の元義勇兵3人が1922年に結成した団体である。当初の目的は、ロシア・カレリアからフィンランドに逃れてきたカレリア難民の救済と教育であった。だが、次第に「近親民族」の連帯、さらには「大フィンランド」、すなわち近親民族は居住するロシア・近親カレリアを含んだフィンランドの建国を目標に活動を行っていく。
カレリア学徒会はヘルシンキ大学の男子学生を会員に取り込むことに成功し、最盛期には4000人まで増え、学生団体の代表的存在ともなった。また、会からは政治家、大学教授といった多くの知識人を排出する。女子学生は入会できなかったが、同年にカレリア学徒会の女子部としてカレリア女子学徒会(1938年にカレリア女性学徒会に名称変更)が別途設立された。
1920年代に入ると、ヨーロッパでファシズム運動の動きが起こるなか、カレリア学徒会もその流れを汲んだファシズム組織と位置づける研究もある。しかし、カレリア学徒会は専制主義をめざした団体というよりは、右翼的性格を持った反共産主義の学生組織といったほうが正確である。
政治の「揺り戻し」、ソ連・北欧との関係改善
1920~30年代にかけて国内では右傾化が進み、暴力的な運動にまで発展したため民主主義の危機が訪れた。だがその後、揺り戻しがあり、結果的にフィンランドの民主主義制度は維持された。
多くの研究者は、フィンランドに民主主義が根付いた主な理由をロシア統治時代の大公国の遺産と分析する。つまり、独立以前から国家機能を備えてきた大公国の歴史こそが独立フィンランドの民主主義の基礎となったのである。
しかし、1933年にアドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任し世界情勢は緊迫していく。フィンランドはそこから逃れるすべはなかった。そして、第二次世界大戦という未曽有の戦争にフィンランドも巻き込まれていくのである。