じじぃの「歴史・思想_565_物語ウクライナの歴史・つかぬ間の独立(1918年)」

Flag and anthem of Ukraine [CC]

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=f69BJTMeVqE

Seven-year-old girl sings Ukrainian national anthem in moving charity event performance | SBS News

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=C50-cZTHrw0

anthem of Ukraine

クリミア半島ソ連からウクライナへのプレゼント」というウソ

2019年12月09日 日刊SPA!
●ロシアのクリミア半島侵略を正当化しようとする人々
最後に、「クリミア半島は元々ウクライナの領土である」と言っておこう。なぜそう言えるのか。先述したように、ウクライナの先祖である古代ルーシはクリミア半島の一部を領有したことがある。ロシア支配の800年も前のことだ。
また、1918年に数ヵ月だけだが、当時束の間に独立していたウクライナはクリミアを支配したことがある。さらに、地理的にもクリミアは自然にウクライナ本土と繋がっている。そして、クリミアタタール人は国籍的にはウクライナ人であり、ウクライナへ忠誠している。クリミアタタール人はウクライナ人であるとすれば、彼らがロシア人よりずっと前に住んでいたクリミア半島も、元々ウクライナの領土であると言えなくもない。
https://nikkan-spa.jp/plus/1628469

『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第3章 リトアニアポーランドの時代 より

ウクライナの語源

さて16世紀になると「ウクライナ」ははじめて特定の地を指すようになる。コサックの台頭とともに「ウクライナ」はドニエブル川両岸に広がるコサック地帯を指すようになった。たとえば1622年コサックの指導者(ヘトマン)サハイダチニーは、ポーランド王宛ての手紙で、「ウクライナ、われらの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を用いている。そしてコサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となり、コサックの指導者の宣言や文書にはそのような意味で使われる「ウクライナ」が繰り返し出てくる。
19世紀になりロシア帝国ウクライナの大部分を支配下に置く頃には、「ウクライナ」は現在のウクライナの地全体を表す言葉になる。しかし当時ロシア帝国ウクライナの地を公式に表すのに「小ロシア」という語を用いた。
19世紀のウクライナの国民詩人シェフチェンコは、「小ロシア」を屈辱と植民地隷属の言葉として排除し、「ウクライナ」をコサックの栄光の歴史と国の独立に結びつけて使った。
ウクライナ」が短期間なりとも独立国家の正式名称として使われるためには、なんと1917年ウクライナ民族主義者により「ウクライナ民共和国」の樹立宣言がなされるときまで待たなければならなかったのである。

第6章 中央ラーダ――つかぬ間の独立 より

ウクライナの独立はなぜ続かなかったのか

第一次世界大戦とロシアのボリシェビィキ革命は、ロシアおよび東欧の地図をすっかり塗り替えた。ロシアでは帝政が倒れ、ソ連ソヴィエト社会主義共和国連邦)という新しい国家が生まれた。民族自決の原則に従って旧ロシア帝国支配下にあったリトアニア、ラトヴィア、エストニアフィンランドのバルト・北欧諸国がが独立し、オーストリア・ハンガリー帝国下のポーランドチェコ・スロヴァキア、ハンガリーも完全独立を果たした。
ところがウクライナは、独立を達成したこれら諸国に比べても圧倒的に大きなエネルギーを独立運動に投入し、また絶大な犠牲を払った。この大戦でウクライナほど各国の軍隊によって蹂躙された地はヨーロッパにないほどである。それにもかかわらず独立はつかの間の夢に終わり、結局大部分はロシアを引き継いだソ連の、そして残りはオーストリアを引き継いだポーランド支配下(つまり大戦前とほぼ同じ状況)に戻されてしまった。ベラルーシには当時独立運動というものはほとんど存在していなかったことを考えると、この地域でひとりウクライナのみが、第一次世界大戦ロシア革命パリ講和会議の配当を受けなかったことになる。これはどうしたことであろうか。以下にその経緯と原因を探ってみよう。

第一次世界大戦ロシア革命

第一次世界大戦では、ロシアは英仏側の「連合国」(または「協商国」)となり、オーストリアはドイツ側の「同盟国」となったため、同じウクライナ人が敵味方に分かれて戦わなければならなかった。ウクライナ人はロシア軍に350万人が、オーストリア群には25万人が動員され、自分たちを抑圧している国のために戦った。
東西ウクライナのうち、独立への動きが早かったのはオーストリア支配下ウクライナ人であった。彼らは大戦勃発直後の1914年8月「全ウクライナ評議会」を結成した。同評議会は、立憲君主制オーストリアが勝ち専制君主制のロシアが負けることがウクライナ民族の解放につながるとしてロシアへの戦いを呼びかけ、ウクライナ人の義勇軍を募った。これには2万8000人が応募したが、その数の多さにオーストリア政府が警戒し、2500人に制限するほどであった。この部隊はオーストリア正規軍に編入されたが、これが近代における最初のウクライナ軍組織であり、後に「ウクライナ・シーチ射撃隊」と呼ばれ、大活躍することになる。シーチとは、ザポロージュ・コサックの本拠地を意味する言葉であり、ハーリチナの地でもコサックの伝統が強く意識されていたことをうかがわせる。
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ハーリチナの独立運動が停滞しているうちに、ロシア帝国下のウクライナで絶好の機会が訪れた。1917年2月、首都ペトログラード(サンクト・ペテルブルクという名がドイツ語だとして対独戦開始後に改名された)で起こった2月革命である。食糧不足に抗議して起きた労働者のデモに兵士は発砲を拒否したことからデモや軍隊の不服従が全国的に広がり、ついにニコライ2世は退位し、ここにロシアの帝政はあっけなく終焉した。ツァーリの政府を継承したのは国会(ドゥーマ)のリベラル派を中心とする「臨時政府」であったが、社会主義者が主導権を握る労働者・兵士代表の「ソヴィエト」(評議会)がこれに鋭く対立し、事実上二重権力状態となった。
キエフに2月革命の報が伝わると、3月ただちにウクライナの諸政党や社会・文化・職業団体の代表が集まり、「ウクライナ中央ラーダ」が結成された(「ラーダ」は会議、評議会を意味するウクライナ語で、ロシア語の「ソヴィエト」に相当するが、今後慣例に従い、民族主義的組織には「ラーダ」を使い、ロシア語を使用していたボリシェビィキの組織には「ソヴィエト」を使用する)。

ボリシェビィキの登場

一方でロシアにボリシェビィキ政権が樹立され、他方でウクライナ民族主義的な中央ラーダ政府が成立すると、必然的に両者の対立が生じてくる。ボリシェビィキ政府は、ウクライナは、ウクライナは当然ロシアの枠内に入るべきものとし、したがって中央ラーダのナショナリズム反革命ブルジョア・分離主義者とみなした。穀物、砂糖、石炭、金属などの産業でウクライナはロシアにとって不可欠な存在であり、ウクライナをロシアから分離することなどは、ロシア人であれば王政派であろうと共産主義者であろうと考えられないことであった。ボリシェビィキは当初ソヴィエト勢力を中央ラーダに入り込ませて内部から乗っ取ろうとしたが、ウクライナにおけるボリシェビィキの勢力は1917年12月の時点では全体の1割程度であり、議会を通じて権力を握ることには失敗した。そこでボリシェビィキは武力を使ってでも単独でウクライナを手中に収める方針に切り替えた。そのためハルキフに「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立して受け皿とした。

再考――独立運動が失敗したのはなぜか

ここで再び最初の疑問に戻ろう。ウクライナ人は中・東欧の他の民族よりも長く独立のために戦い、しかもこれまで見てきたようにかくも多くの犠牲を払いながら結局独立が失敗したのはなぜであろうか。
ウクライナ系カナダ人の史家スブテルニーは次のような要因を挙げている。まず国内要因として、ツァーリ政府の下で民族主義が抑圧されていたことがある。ウクライナではロシアに比べてインテリの比率は低く、そのインテリもロシア文化にどっぷり浸かっていた。多くのインテリにとって社会改革か民族独立か迷うところとなった。したがって自治・独立の機会が訪れたとき、戦略もイデオロギーも十分でないまま政府作りにかからねばならなかった。実際中央ラーダを構成する政治家たちは大部分がまだ20代、30代の経験浅い者達であった。
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しかしこの独立は無意味だったのではない。確かに短期間に終わったが、ウクライナは紛れもなく独立していた。そしてその記憶はソ連時代にも連綿として生き続け、第二次世界大戦のときにも幾多の独立運動に結びつき、ついにはソ連の崩壊時に本格的な独立となって実を結んだ。その意味でかつての独立国家であったという思いは、現代のウクライナ人にとって大きな誇りと支えになっている。

現在の独立ウクライナの国旗、国歌、国章はいずれも1918年中央ラーダが定めた青と黄の2色旗、ヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」(1865年)、ヴォロディーミル聖公の「三叉(さんさ)の鉾(ほこ)」であることからも、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識しているのである。