じじぃの「歴史・思想_669_ゼレンスキーの真実・95地区の芸人」

The comedian who could be president - BBC News

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-9smD823aE0

Zelensky:Early Life as a comedian


Who is Volodymyr Zelensky, the Jewish president of Ukraine?

MAY 15 2022 Unpacked
●Early Life as a comedian
Zelensky was born to two Jewish parents on January, 25, 1978, in the Ukrainian town of Kryvyi Rih.
His father is a computer science professor and his mother is an engineer.
https://jewishunpacked.com/who-is-volodymyr-zelensky-the-jewish-president-of-ukraine/

ゼレンスキーの真実

レジス・ジャンテ、ステファヌ・シオアン(著)
【目次】
第1章 演じたことのない場面
第2章 ドラマの大統領から現実の大統領へ

第3章 95地区の芸人

第4章 オリガルヒとの緊張関係
第5章 プーチンとの交渉
第6章 複雑な欧米諸国
第7章 歴史に出会う場所で

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『ゼレンスキーの真実』

レジス・ジャンテ、ステファヌ・シオアン/著、岩澤雅利/訳 河出書房 2022年発行

第3章 95地区の芸人 より

ソ連に生まれて

ウラディーミルというロシア名で呼ばれていたヴォロディミル・ゼレンスキーは、1978年1月25日、まだクリボイログという名称だった灰色の地味な街で、ユダヤ系の科学者の家庭に生まれた。彼が育ったこのベッドタウンには、あまりの特徴のなさから95地区という番号が付けられていた。ナチス・ドイツによる占領後の1950年代に、ガガーリン通りと製鉄工通りにはさまれた土地に作られた街だった。セピア色かかった白黒写真の時代によく見られるように、この写真からは少年の両親がひとり息子を大事にしていた様子がうかがえる。少年は西側の流行を思わせるチェックのシャツと仕立てのいいベストを着ていて、バスケットシューズまではいている。それで、身だしなみに気をつかう行儀のいい男の子という印象を与える。『国民のしもべ』のヴァシル・ゴロボロジコが高校に出勤するため身じたくするそばで、母親が彼のシャツにアイロンをかけているシーンが思い出される。

ゼレンスキー家の人々からは、穏やかで誠実で、国に対して献身的な、ソ連の善良な家族の雰囲気が感じられる。ウラディーミルの母親リンマ・ヴォロジミリフナ・ゼレンスカは技術者になるための教育を受けた。父親のオレキサンドル・セミョノビチ・ゼレンスキーは数学者、理学博士、クリヴィー・リフ国立経済技術大学の情報・サイバネティクス学部教授であり学部長だった。
その道の一流の専門家と目された父親は20年のあいだ、モンゴルのエルデネトという街に滞在し、銅を抽出し加工する工場の建設に担当官としてたずさわった。こうしてヴォロディミルはエルデネトで4年を過ごす。この街で初等教育1年目に担当する課程を修了したあと、クリヴィー・リフに戻り、第95小学校に編入する。ソ連式のしつけをする家庭の子どもらしく、ヴォロディミルはレシリングや重量挙げなどいろいろな活動に熱中する。とくに重量挙げはその後ずっと続けていて、大統領になった現在、トレーニングジムで撮った画像をインスタグラムに投稿している。また、切手を収集し、ピアノを演奏し、社交ダンスを習い、自分の身長がチームの足を引っ張る心配がないときはバスケットボールの試合に加わる。最近はギターも弾きはじめた。

体制順応が求められるソ連社会では、ほとんど完璧といっていい家庭である。当時は、血筋がユダヤ系であることを強調するのは望ましくなかった。1950年代初頭、スターリン治下で「医師団陰謀事件」が大問題となってから、反ユダヤ主義が全国に浸透していく。ウクライナは、第二次世界大戦を生きのびたユダヤ人家庭は人目につかないようあらゆる努力をし、ときには自分たちの姓を変えることまでした。「私は1970年代の洗練されたユダヤ人に特有の家庭で生まれた」とゼレンスキーは2020年に述べ、「ソ連国家のなかで宗教は宗教として存在しなかった」から、両親は信仰を持っていなかったと説明している。
2019年3月末、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィは、大統領選の2回の投票のあいだに、ゼレンスキーと会うためキーウへやってきた。ユダヤ人かどうかについてベルナール=アンリ・レヴィから問われると、ゼレンスキーは真実を明かすのを渋った。そして「私がユダヤ人であることは、私の数多い欠点の20番目に入るか入らないか程度のことだ」と答えた。

ロシアとの亀裂

2022年3月27日。すでに1ヵ月以上、ウクライナはロシアの軍事侵攻に対して必死に抵抗している。ゼレンスキー大統領は、数週間前に国外へ逃れたロシアの著名な反体制派ジャーナリストの5人によるZoom(ズーム)の長時間のインタビューに応じた。現在のゼレンスキーは隣国の視聴者に冗談を言ったりはしない。いま彼らに話かけるのは、戦争中の国の最高司令官である。
トレードマークのカーキ色の半袖シャツを身につけた彼の顔には、何日も剃っていない髭(ひげ)が伸びていた。青白い顔色で、目には隈(くま)ができている。ときどき頭を両手で抱えながら、質問に答えつづける。インタビューは彼が母語とするロシア語で1時間半ほど続いた。睡眠不足にもかかわらず言い間違いはなく、選ぶ用語も正確だった。

しかし何度か、言うべき言葉を探す場面があった。マウリポリで多くの死傷者が出たことを話すとき、ロシア語の「薬」という単語を思い出せなかったのだ。「リキ……リキ……あれは何て言ったかな?」彼はテレビ画面に映っていないスポークスマンにたずねた。「リカールストヴァです」とスポークスマンが小声で言った。この出来事は一考に値する。こんなに単純なロシア語をどうして忘れたりしたのだろう。 芝居のうまいゼレンスキーはロシア国民に、いまの自分が外国人であることをわからせようとしたのだろうか。それとも単に疲れていたのか。ウクライナ人のある有名な女性ジャーナリストに聞いてみると、ゼレンスキーは演技をしたのではない、彼はいま完全にウクライナ人で、1日中ウクライナ語を話しているのだ、という。もはや、2019年の大統領選でトレーニングジムから動画を投稿したり、ウクライナ語の難しい表現にとまどったりする彼ではないというわけだ。
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ロシア政府の根本的な誤りは、ロシア語を話すことを、ロシアを愛することと同一視し、ひいてはロシア国家に帰属することと考えている点にある。的確な判断力に欠けてロシア政府は、ウクライナがヨーロッパ屈指のバイリンガルの国である事実を見ていない。2014年のマイダン(広場)革命の背景には、ウクライナ人のアイデンティティと統一ウクライナの原則に対する国民レベルの賛同に目覚めたウクライナ東部の若者たちの存在がある。他方、彼らの祖父母の世代でドネツクやマウリポリに住んでいる人々は、今もソ連時代に郷愁を抱いている。

2014年にプーチンがドンバス地域にもたらした戦争は、ウクライナ人の国民意識を、また選んだ人生がどんなものであり自由を愛し、日常生活をよりよくしようという気持ちを強めただけだった。ウクライナ人はいわゆる言語の分裂を超えて、ヨーロッパ型の発展をしたいと願っている。
2022年3月、ウクライナ南東部のへルソンやメリトポリで、街角におおぜいで出てきた勇気ある住民たちが、ロシアの兵士たちを歓迎するのではなく、「帰れ、国に帰れ! ウクライナに栄光を!」と叫ぶ様子が放送されてヨーロッパ人は驚いたが、あの行動の背景にもウクライナ人の意識がある。
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しかしロシアの行動はエスカレートし、ロシアにまだ熱い思いを寄せていた最後のウクライナ人のの意見をも変えてしまった。2022年3月27日のロシア人ジャーナリストによるインタビューで、ゼレンスキーは言った。
「2014年にわが国のロシア語使用地域ですべてが始まったとき、私たちは戦いが終わってほしい。誤解であってほしいと願った。私はそう理解していた。大統領になると、あの戦争を止めるためにはどんなこともやる必要があるとわかった。しかしいま、事態は戦争を超えたものになっている。そう、この戦争に対するロシア国民の反応の乏しさに、私はひどくがっかりしている。洗脳のようなことはあるだろうが、率直に言えば、それは言いわけにすぎない。1回の出来事にういて反応がないならまだしも、この国はもう8年もこんなのだから」

2022年のロシアとウクライナの戦争はまぎれもない悲劇であり、この上なく重要な歴史の出発点である。ロシアは近隣諸国に支配を広げることで帝国的な規模を取り戻すのか、それともウクライナが、かつてのロシア植民地帝国から遠ざかり、ヨーロッパ型の人権国家モデルを採用して、国民を経済的にも社会的にも成長させ、ヨーロッパの若い国民国家として自らを確立するのか? ヴォロディミル・ゼレンスキーはこの問題を解く鍵を握っている。ソヴィエト連邦に生まれ、「ロシア世界」のなかで暮らし、ペレストロイカの時代に少年期を送り、13歳でソ連崩壊を迎え、独立国となったウクライナで人格を形成した44歳のヴォロディミル・ゼレンスキーは、ウクライナの移り変わりと歩みをともにしてきた象徴的人物である。

クリヴィー・リフの95地区で1978年に生まれたことは、ふたつの国土、ふたつの精神のあいだで成長したことを意味する。それは記憶と経験をロシア人と共有しながらウクライナ人のアイデンティティを要求することであり、ウクライナ国家の歌詞にあるようにコサックの系譜を明確にしながら、自由を目指して自らの国を治めることである。マイダン革命から8年が経過した現在、ゼレンスキーはウクライナを新しい歴史的地平へ導くリーダーになるかもしれない。