フィンランド共和国 国歌「我等の地」(Maamme)日本語訳/National anthem of Finland
Finland country profile
10 December 2019 BBC
1809 - Finland is ceded to Russia by Sweden, which has dominated the country since the 1300s. The Finns retain a considerable amount of autonomy.
1899 onwards - Attempt at Russification of Finland, including conscription of Finnish men into the Russian army and the imposition of Russian as an official language. Campaign of civil disobedience begins.
https://www.bbc.com/news/world-europe-17288360
ロシア帝国下の「大公国」――19世紀から第一次世界大戦 より
まずロシア統治時代における「誤解」について触れておきたい。
日本では、この時代のフィンランドは「ロシアの圧政に苦しんでいた」「独立を切望していた」と見られることが多い。だが、ロシアがフィンランドの自治を厳しく制限したのは1890年代からであり、統治期間の3分の1ほどである・それまでは広範囲の自治を長く享受していた。フィンランド人は「ロシアの圧政」にずっと苦しんだわけでもなく、独立を志向したわけでもない。むろん、研究者によってこのロシア統治時代の解釈は異なるが、本書ではロシア帝国統治の時代にこそ、フィンランド人が自らのアイデンティティを模索することができたと見る。
では、ロシア統治期にフィンランドはどのような道を歩んでいったのかを順を追って見ていきたい。
独自通貨発行の容認と「トルッパリ問題」
フィンランドはロシア統治下に入ったが、経済はロシアと分離して扱われた。
ロシア・ルーブルがフィンランド大公国の公式通貨として採用されたが、スウェーデンの通貨も1840年代まで流通していた。1811年にオーボ(トゥルク)にフィンランド銀行が設立され(1819年にヘルシンキに移転)、60年にはフィンランド独自の通貨マルッカとペンニの発行が許された。その価値はロシア通貨の4分の1でしかなかったが、ロシア統治下でフィンランドに独自の通貨の発行・流通が許されたのは特筆に値するだろう。
税金については、1809年のボルゴーでの身分制議会招集時にすでにアレクサンドル1世がロシア帝国とフィンランド大公国とは別であると宣言したため、関税など一部例外はあったが、フィンランド内で集めた税金は同地のみに使用することができた。
インフラ整備も進んでいった。1862年にヘルシンキとハメーンリンナ間にフィンランド初の鉄道が開通すると、徐々に拡充され、70年にはヘルシンキとサンクトペテルブルク間も開通した。また、1856年にフィンランド南東部にあるサイマー湖と「古フィンランド」の主要都市ヴィボルグを結ぶサイマー運河が開通し、交易路として活用されていった。
フィンランドの人口も飛躍的に増加していく。19世紀に入ると80万人を超していたが、1812年のロシアによる「古フィンランド」変換で100万人を超える。
当時、ほとんどは農民であったが、農地を持たない小作農「トルッパリ」から教区の仕事も担うほど政治力を持つ農民まで、その経済レベルはさまざまだった。1860年代頃から、農業にも機械が導入され、トルッパリ以下貧農の労働の必要性が低下し、環境が悪化する者たちが急増した。これは「トルッパリ問題」と呼ばれ、半世紀を経てフィンランド独立後の1918年に法律が制定されるまで続いた。
アレクサンドル2世による「自由化の時代」
フィンランド史のなかで、1850年代後半から70年代二かけてのロシア統治時代は広範囲の自治を得たことから「自由化の時代」とも表現される。この時代は政治、経済、社会の多方面で独立の礎を築いた時代でもあった。
「自由化の時代」の立役者は、1855年にニコライ1世の後を継いだロシア皇帝アレクサンドル2世である。アレクサンドル2世は1861年の農奴解放令をはじめとする近代化を進めた皇帝として知られるが、フィンランド大公国でも改革を押し進めていった。
そのきっかけは1853年から56年までロシアとオスマン帝国、イギリス、フランスの間で戦われたクリミア戦争である。フィンランドでは「オーランド戦争」とも呼ばれる。オスマン帝国を援助したイギリスとフランスの艦隊が1854年にスウェーデン、フィンランド間に位置するオーランド諸島を攻撃したからである。艦隊はボスニア湾沿岸の都市やヴィアポリ要塞も攻撃したので、フィンランド人は艦隊を相手に戦った。結局、ロシアは敗北したが、フィンランド人の働きぶりにアレクサンドル2世は喜んだという。
クリミア戦争の敗北から、ロシア本国では近代化が進められ、戦争で貢献したフィンランドに対しては自治をより広範囲に認める措置をとった。たとえば、外国の商品の扱いを大都市でのみ認め、途方での商売開業を厳しく規制していた禁止令が、1859年に撤廃され、商業が自由化された。1879年には職業の自由が宣言され、世襲の仕事から別の職にいどうできる可能性が広がった。
いまでもヘルシンキ中心部にあるセナーッティントリ(元老院広場)の真ん中にアレクサンドル2世の銅像が立っているが、この像からは「自由化の時代」をもたらしてくれた皇帝への感謝が見えるだろう。
この自由化について、フィンランドの歴史学者ヘンリク・メイナンデルは、ロシアはフィンランドをロシア自由主義のための「ショーウインドウ」にしたと記している。当時同じくロシア帝国支配下のポーランドはロシアにたびたび反乱を起こし、鎮圧されていたが、フィンランドではロシアに対する目立った暴動は起こっていなかった。
文学の興隆――スウェーデン語からの展開
「自由化の時代」にフィンランド文化は花開いたが、フィンランド語使用推進者らはスウェーデン語を母語としていたため、文化運動はそもそもめざしたフィンランド語の使用は実際には進まず、公共機関や議会などでは1870年代まで使われなかった。このような言語状況のなか、フィンランドの文字はスウェーデン語による作品を中心に発展していく。フィンランドの文字は詩を中心に発展していくが、それらの詩もスウェーデン語で書かれていった。
「土曜会」の立ち上げメンバーの一人であったルーネベリは、のちに国民的詩人としてフィンランド文学史にその名が刻まれる人物であるが、彼の詩もスウェーデン語で書かれた。1830年に発表した詩集『詩』で描かれた、信心深く、厳しい自然のなかで農業を営む勤勉な農民パーヴォの姿は、フィンランド人のモデルとなった。
また、1848年に発表した1808年のフィンランド戦争を戦った一兵士を題材にした詩集『旗手ストールの物語』は、のちのフィンランド文字に大きな影響を及ぼし、最初に掲載された詩「我が祖国」はのちにフィンランド語に訳され、独立フィンランドの国歌の歌詞となった。