じじぃの「歴史・思想_257_フィンランド・冷戦期の文化・ムーミン漫画」

Helsinki Art Museum Tove Jansson (Moomins creator)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UoI9Ji6xW-E

Tove Jansson

Tove Jansson's Personal Details

●Who is Tove Jansson?
Known today for her contributions to children's literature, Tove Jansson was an accomplished painter, writer and novelist in her lifetime. Born to a Bohemian, open-minded mother and an introspective, artistic father, Tove knew from a young age that she would grow up to be an artist. Raised by a proud and independent mother, she grew up free from much of the restrictions placed on women at the end of the Victorian Era. With the love and support of her family, she traveled through the capitals of Europe, studying and perfecting her artistic techniques.
https://famousbio.net/tove-jansson-10093.html

『物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』

石野裕子/著 中公新書 2017年発行

苦境下の「中立国」という選択――休戦~東西冷戦期 より

1944年9月19日にソ連およびイギリスと休戦条約を終結したフィンランドは、敗戦国として復興に向かって歩み出すことになる。フィンランドは2度にわたる戦争で大きな痛手を負ったものの、独立を維持することはできた。しかし第二次世界大戦後、世界がソ連主導の「東」、アメリカ主導の「西」に分裂する状況下、フィンランドはどちらに付くかの選択を迫られることになる。

ソ連との友好・協力・相互援助条約の終結

1947年2月、連合国21ヵ国と終結したパリ講和条約によって、フィンランドは主権を回復した。その直後、スターリンからソ連との相互援助条約が提案される。ソ連フィンランドが西側に取り込まれないために条約終結を求めたが、フィンランドは別の思惑から終結する。フィンランドは、2度にわたるソ連との戦いで小国が大国間の争いの外にいる必要性を痛感し、独立の尊重と内政不干渉の原則をこの条約に盛り込もうとしたのである。
条約自体はすでに3年前から議題に上っていたが、1948年4月6日に友好・協力・相互援助条約(通称FCMA条約。フィンランドではYYA条約と略)として正式にソ連フィンランド間で終結される。この条約で注目すべき点は前文と第1条および第2条である。
前文では、フィンランドソ連との間の友好関係および協力の強化を謳うなか、「大国間の利害紛争の外に留まりたいというフィンランドの願望を考慮し」、かつ国際連合組織の目的と減速に従って、国際的な平和と安全の医事のために確固として努力する旨を表明するとされた。この「大国間の利害紛争の外に留まりたい」という一文は、フィンランドからの要望であり、この表現をめぐって議論が行われたが、最終的にフィンランドの意向が通った。この一文はその後のソ連内政干渉に対抗する手段となった。

冷戦期におけるフィンランドの文化

戦後のフィンランド文学界では世界的にも著名な作家が生まれた。ベストセラー『エジプト』(1945年)の作者ミカ・ワルタリ(1908~79)は歴史小説を多く書き、その多くが翻訳され、世界で知られる存在である。ヴェイヨ・メリ(1928~2015)も、第二次世界大戦期の兵士を主人公にした『マニラ麻のロープ』(1957年)のような小説だけではなく、詩やノンフィクション、伝記なども手がけ、その作品は24もの言語に翻訳されるなど、世界的に知られた作家である。『エジプト人』『マニラ麻のロープ』は日本語にも訳されている。メリは日本文学愛好家としても知られ、大岡昇平フィンランドに紹介した人物でもある。
第二次世界大戦時の対ソ戦を題材とした作品も登場した。ヴァイノ・リンナ(1920~92)による継続戦争時の兵士を主人公にした小説『無名戦士』(1954年)はベストセラーになり、翌年には映画化されている。
また、トーヴェ・ヤンソン(1914~2001)は、ムーミンシリーズとして知られる小説『小さなトロールと大きな洪水』(1945年)を発表後、54年からロンドンの夕刊紙『イヴニング・ニュース』でムーミン漫画の連載を始めた。
デザインでは、「北欧デザイン」としてその素材を活かしたシンプルな意匠が1950年代から世界で流行する。
フィンランドを代表する建築家アルヴァル・アールトは、妻アイノとともに設計事務所を立ち上げ、多くの建築物やインテリア製品などを手がけた。

ムーミン――日本で群を抜く人気

日本で圧倒的に知名度があるフィンランド発の文化は「ムーミン」だろう。2014年は、ムーミンの作家トーヴェ・ヤンソン(1914~2001)の生誕100周年だった。それを記念して彼女の評伝の翻訳本が出版され、雑誌で特集が組まれ、展覧会も開催されるなど、「ムーミン・フィーバー」が起った。ここでは、ムーミンとトーヴェについて、ファンにとっては当たり前のことかもしれないが、一般読者にための基礎的なことに触れておきたい。
意外かもしれないが、ムーミンスウェーデン語で書かれている。作家トーヴェ・ヤンソンスウェーデン語を母語とするフィンランド人であり、原作はスウェーデン語だ。
芸術家の両親を持つトーヴェは勉強嫌いで、15歳で学校を中退後、スウェーデンの首都ストックホルムにある工芸専門学校で学び帰国後にヘルシンキアテネウム美術学校で油彩を勉強した。奨学金を得て、パリやイタリアも訪れるなど絵の勉強を続ける。
ムーミンの原型は、スウェーデン語の政治風刺画『ガルム』の挿絵である。その挿絵に、1934年にムーミンらしきトロールが登場したとされる。当時はフィンランド語を国家の第1言語に据えることを目標とした純正フィンランド性運動の活動が盛んに行われており、そのような風潮がスウェーデン語を母語とするトーヴェ本人にマイノリティーの自覚を促し、さらにはムーミンの世界観にも影響を与えたと言われる。
第二次世界大戦後の1945年、トーヴェはムーミンが登場する小説『小さなトロールと大きな洪水』を発表する。だが売れ行きが悪く、すぐに絶版になる。その後、何度も書き直しを重ね、1946年の第2作『ムーミンの彗星』が発売される。1948年の第3作『たのしいムーミン一家』が英訳されると、イギリスで評判となり、フィンランドでもムーミンシリーズが売れ始め、ここからムーミンの快進撃が始まる。
1952年には絵本が、54年にはムーミンの漫画がロンドンの夕刊紙『イヴニング・ニューズ』で連載されるようになると、人気はさらに拡大する。なお、この漫画はトーヴェの弟ラルスの協力を得て描かれた。
1959年には、人形によるパペットアニメーションがドイツで放映され、69年に日本でアニメ版がテレビで放映されると、日本での認知度が一気に広がった。オペラやバレェにもなっていく。
ただしトーヴェは、1970年の『ムーミン谷の11月』を最後に、それ以降は大人向けの小説を書き始めるようになる。