じじぃの「歴史・思想_204_人類と病・世界初の抗生物質・ペニシリンの登場」

You might not really be allergic to penicillin

Nov 30, 2019 PrinceGeorgeMatters.com
Penicillin is used to treat bacterial skin, ear, sinus, dental, and some respiratory infections.
https://www.princegeorgematters.com/local-news/you-might-not-really-be-allergic-to-penicillin-1893044

楽天ブックス:人類と病 - 国際政治から見る感染症と健康格差 (中公新書 2590)

詫摩佳代(著)
【目次】
第1章 2度の世界大戦と感染症 025
4 第二次世界大戦における薬の活躍 047
  サルファ剤の登場
  ペニシリンの登場
  抗マラリア薬クロロキンの登場
  DDTの活用から禁止へ
  第二次世界大戦と国際保健協力
https://books.rakuten.co.jp/rb/16258112/

『人類と病』

詫摩佳代/著 中公新書 2020年発行

2度の世界大戦と感染症 より

日本はドイツと同じく、1933年に国際連盟に脱退通告を行うガ、その後も保健協力にはとどまり、その関係は1938年まで続いた。連盟の事務総長もこの点には注目し、日本を国際連盟に引き戻す上で保健事業を重視した。
残念ながら、そのような期待が満たされることはなく、1939年には2度目の世界大戦が勃発する。満州事変をめぐる日本と国際社会の亀裂はあまりに大きく、保健協力はそれを埋め合わせるのにあまりに微力であった。他方、この大戦では第一次世界大戦と異なり、感染症による死者はそれほど多くなかった。ペニシリンや抗マラリア薬の登場など、医学の発展に大きく助けられたためである。

サルファ剤の登場

20世紀初頭、エールリッヒと秦佐八郎によって、梅毒の治療に有効のサルバルサンが開発された。サルバルサンは人工的に合成された有機砒素(ひそ)化合物で、これによって化合物で感染症の治療を試みる化学療法の道が開かれた。科学者たちは、各種細菌に有効な化合物を探索し始め、その1つの産物が、細菌感染症に対する治療薬サルファ剤の登場であったという。
1935年、ナチス施政下のドイツで、細菌学者ゲルハルト・ドーマクが世界初のサルファ剤系合成抗菌薬を発表した。その技術はすぐに他国に広まり、フランスやアメリカなどの製薬会社がサルファ剤の製造・販売に乗り出した。サルファ剤はレンサ球菌感染症のほか、肺炎や産褥熱(さんじょくねつ)、髄膜炎などの細菌感染症を治療するために用いられたという。大戦が始まるといずれの軍もサルファ剤を携帯したが、開戦の時点ですでに耐性菌が現われており、戦争ではペニシリンが主流となっていった。

ペニシリンの登場

サルファ剤にも増して、第二次世界大戦で活躍した薬がペニシリンであった。1928年、イギリスの科学者アレキサンダー・フレミングは病原菌に対して阻止力、殺菌力、溶菌力を有する物質を発見し、ペニシリンと名づけた。アメリカの医学者ハリー・ダウリングによれば、その後、実用化までには時間を要し、第二次世界大戦開戦後にようやく、ペニシリンブドウ球菌感染症、ガス壊疽菌、骨髄炎、梅毒など多様な感染症に対する有効な化学療法であることが認められたという。
多岐にわたる効能が明らかになり、また大量生産が可能であったことから、大戦では主に連合国によって活用された。1942年以降、アメリカの製薬会社はペニシリンの大量生産に乗り出し、1944年ノルマンディー上陸作戦を経てドイツ占領地域に侵攻した際にも、連合国軍は傷病兵を治療するのに十分な量のペニシリンを携帯していたという。
他方、軍が激しくその生産と管理を統制したこともあって、市場では高値で品薄となり、ペニシリンの闇取引も横行した。アメリカの映画監督・俳優のオーソン・ウェルズが出演している古典的名画『第三の男』(1949年)にはその様子が描かれている。第二次世界大戦直後のオーストリア・ウィーンでは、ドイツと同様、連合国による分割占領が行なわれていた。軍の間にはペニシリンが十分に行き渡っていたが、軍が激しく統制していたため、一般市民の間ではペニシリンは品薄であった。そうしたなか、ペニシリンの闇取引が横行する。オーソン・ウェルズが扮するハリーは軍病院の関係者とペニシリンの闇取引を行い、薄めて量を増やした粗悪なペニシリンを一般市民に売りさばく、ペニシリンへの過度な期待から、藁(わら)にもすがる気持ちでやっと入手できた(粗悪)ペニシリンを親たちは子供たちに投与する。「死ねば運が良い方で、不幸だと脳をやられて(脳髄炎に罹患)施設に行く」。
戦後しばらくすると、ペニシリンは、どこにいても入手できる身近な薬となった。第二次世界大戦前後のペニシリンの広告からは、ペニシリンを大量生産することで、多くの人の命が救われるのではないかという期待がうかがえる。医療現場では「とりあえずペニシリンを投与する」という治療法が横行した。そのような負の産物を生み出しつつも、第二次世界大戦感染症による死者の数が大きく抑えられたことにおいて、ペニシリンの果たした役割には疑う余地がない。