じじぃの「科学・地球_375_魔術師と予言者・ドン・グアノ・生き残る道」

William Vogt


Guanay Cormorant ストックフォトと画

Getty Images
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William Vogt

Fellow: Awarded 1943
Field of Study: Organismic Biology & Ecology
https://www.gf.org/fellows/all-fellows/william-vogt/

魔術師と予言者―2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い 紀伊國屋書店

チャールズ・C・マン(著)、布施由紀子(訳)
現代の環境保護運動の礎となる理念を構築した生態学者ウィリアム・ヴォート=予言者派と、品種改良による穀物の大幅増産で「緑の革命」を成功させ、ノーベル平和賞を受賞した農学者ノーマン・ボーローグ=魔術師派の対立する構図を軸に、前作『1491』『1493』が全米ベストセラーとなった敏腕ジャーナリストが、厖大な資料と取材をもとに人類に迫りくる危機を描き出した、重厚なノンフィクション。
《人類の未来を考えるための必読書》

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『魔術師と予言者――2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い』

チャールズ・C・マン/著、布施由紀子/訳 紀伊國屋書店 2022年発行

第2章 予言者 より

ドン・グアノ

グアノ管理会社に職を得たウィリアム・ヴォートは、ペルー南西海岸の約20キロメートル沖に浮かぶ3つの花崗岩の島々、チンチャ諸島に活動の拠点を置いた。北チンチャ島、南チンチャ島、中央チンチャ島と、なんの変哲もない名前のついたこれらの島は、いずれも幅が1.5キロメートル足らずで、周囲には高さ30メートルほどの断崖絶壁がめぐらされ、地表は鳥の糞にびっしり覆われていた――樹木も生えていない灰白色のグアノの荒野が一面に広がっていたのだ。そのグアノの上では、何百万羽ものグアナイウが甲高い声で鳴き交わし、翼をはばたかせていた。1平方メートルあたり3つの巣を設けてひしめき合い、抜けた羽毛に縁取られた小さな穴に卵を産み落とし、それを鋭いくちばしで守っている。バサバサ、パタパタという翼の音が何百万倍にも増幅され、頭蓋骨を震わせる。ノミ、ダニ、アブがそこらじゅうにいる。グアノのにおいもまた、島を覆い尽くしていた。昼ごろには、あまりに陽射しが強烈になるので、ヴォートのカメラの露出計が「しばしば光の強度を計測できなくなった」という。頭と首がつねに陽に灼かれていた。後年、彼の耳に前がん状態の腫瘍が見つかった。
ヴォートは北チンチャ島の鳥類保護監視員宿舎で仕事をし、食事をとり、眠り、何週間も続けて沖合にとどまった。

廃墟のモザイク

最終報告書を手にし、40歳の誕生日を目前に控えたヴォートは、自分の人生について決断を下す必要に迫られていた。研究が進むにつれ、彼はある計画を思い描くようになった。まだ完全ではないグアナイウのデータを使って、博士号を取得しようと考えたのだ。アルド・レオポルド(ヴォートの師であり、友であり、相談相手だった)の助けを借りれば、ウィスコンシン大学で、講義に出席することなく(あるいは最低限の単位で)実現できるはずだ。論文を書くには数年かかるが、学位をとれば、資源保全活動に向けて力を結集するという目標も達成しやすくなる。ペルーにとどまって研究を完結させるべきか。すぐにウィスコンシンに行って博士号をめざすべきか。ヴォートが決断を下そうとしていた矢先の1941年12月、日本の海軍航空隊が真珠湾を爆撃した。
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ペルーの島々で海鳥を研究したあとに、西半球全域で暮らす人間へと研究対象を変更するよう頼まれたわけだ。しかし彼はそれを大きな変更だとは思っていなかった。小さな島々の鳥も、大きな大陸に住む人間も、生態学の基本的枠組みの中で理解できると考えていた。この枠組みをあてはめれば、どちらの種も、生物学的法則に支配され、環境によって形作られる生態系の一部であることがわかる。法則を理解し、環境を測定すれば、未来像がつかめるはずだ。ヴォートはそれを目標にした。
それから5年のあいだに、ヴォートは西半球の22の独立国家をすべて訪れた。こうした国々の都市を何度となく訪れては、高級レストランで食事をとり、美しいコロニアル風のホテルに滞在して、都市の外へも出ていった――そしていたるところで「破壊」を目にした。メキシコでは侵食の進んだ丘陵地帯を。アルゼンチンでは汚染された川を。ベネズエラでは壊滅状態に陥った漁場を。エルサルバドルでは干し上った帯水層を。なかでも、おそらく最悪だったのは、森林破壊だ。南北アメリカ大陸の全地域で森林が姿を消しつつあり、そのために侵食が進み、それが洪水の発生につながって農地が破壊され、農家の人々が新たな土地を開拓する必要に迫られていた。
ヴォートはレオポルドとの対話を通じて、文明は、それを支える生態系が健康であってはじめて成り立つこと、生態系の健康の鍵は土にあることを教えられていた。

生き残る道

1945年の夏、ヴォートの人生は大きく変化した。新たな意見を聞いてもらうチャンスを与えられ、新たな旅の伴侶を得たのだ。そのチャンスは本を書く機会に恵まれたことであり、伴侶とは2番目の妻、マージョリー・エリザベス・ウォレスを指す。ヴォートの著書は、現代の環境保護運動の知的枠組みをはじめて提示することになった。いま、その理念はあまりに広く浸透していて、多くの人々が理念であることにさえ気づかなかったり、とくに考えたりもしなくなっている。ヴォートは、新しい妻がいなければ何ひとつとして達成できなかっただろうと言っていた。
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フェアフィールド・オズボーン(環境保護論者)は、二度の世界大戦は環境の劣化によって引き起こされた――つまり、本質的には資源戦争だった――と考えていた。彼は好んでこう言った。当時は人類が「ふたつの大きな戦いに巻き込まれていたのだ。新聞の見出しを飾っていたのはそのうちのひとつにすぎない。もうひとつの戦争は……原子力の悪用以上の惨害をもたらす可能性を秘めている。それは、人間と自然の闘いだ」。味蕾の破滅を防ごうと、1948年、オズボーンはレオポルドとヴォートとともに、初の国際的な自然保護団体、自然保全基金(Conservation Foundation)を設立した。同時に彼は、「人類も地球の生物学的システムの一部であり、自然のプロセスに代わるものを首尾よく産み出せる精霊ではないことを示すために」本を書きはじめた。
ヴォートは、自分よりも裕福で社会的地位も高いオズボーンと競い合うことになったと知って動揺したのかもしれない。しかし決してそれを表には出さなかった。ふたりは手紙のやりとりをした。オズボーンは五番街にある動物学会本部の豪華な一室から、ヴォートは中南米のホテルか、政府が米州連合に用意してくれた執務室から、便りを送り合った。オズボーンはヴォートとレオポルドが「課題への哲学的取り組み」の正しい方法を教えてくれると感じ、信頼していた。ヴォートはオズボーンに、原稿執筆に没頭して、「書き終えるのは午前2時まで」眠れなかったと伝えた。そして彼に、本の書き手として賛辞を送った。「きみの原稿を読みながら、「自分もこんなことを思いつけたらなあ」と思ったことは一度や二度ではありません」と。オズボーンの『略奪されたわれらが惑星(Our plunderd Planet)』と、ヴォートの『生き残る道』は、いずれも1948年のうちに、わずか数ヵ月のあいだをおいて刊行された。
どちらも大成功だった。『略奪されたわれらが惑星』は八度の増刷を重ね、13ヵ国語に翻訳された。

『生き残る道』は、ブック・ザ・マンス・クラブ(読む価値があると判断した本を自動的に毎月、全米80万人の購買者に送り届けるサービス)に選ばれ、「リーダーズダイジェスト」誌にも取り上げられた(世界最多規模の発行部数を誇る雑誌。この本の内容の要約が掲載され、定期購買者1500万人に届けられた)。『生き残る道』は9ヵ国語に翻訳された。ヴォートはクランブルック科学研究所と環境保護団体のアイザックウォルトン同盟から賞を受け、『生き残る道』はそれから数週間のうちに、26の大学やカレッジで(のちにはさらに多くの教育機関で)教科書として採用された。