Norman Borlaug, Nobel Peace Prize 1970: Three barriers you have to go across
Norman Borlaug
Editorial 20: The example of Norman Borlaug
9/10/2011 Veterinaria Digital
We believe that we must reassess attention on actions such as those in 1970 earned him the Nobel Peace Prize to Norman Borlaug for the social and economic gains of the Green Revolution.
https://www.veterinariadigital.com/en/post_blog/editorial-20-the-example-of-norman-borlaug/
魔術師と予言者―2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い 紀伊國屋書店
チャールズ・C・マン(著)、布施由紀子(訳)
現代の環境保護運動の礎となる理念を構築した生態学者ウィリアム・ヴォート=予言者派と、品種改良による穀物の大幅増産で「緑の革命」を成功させ、ノーベル平和賞を受賞した農学者ノーマン・ボーローグ=魔術師派の対立する構図を軸に、前作『1491』『1493』が全米ベストセラーとなった敏腕ジャーナリストが、厖大な資料と取材をもとに人類に迫りくる危機を描き出した、重厚なノンフィクション。
《人類の未来を考えるための必読書》
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『魔術師と予言者――2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い』
チャールズ・C・マン/著、布施由紀子/訳 紀伊國屋書店 2022年発行
第3章 魔術師 より
ただ野外で体を動かすことが好きだった
フットボールの入部テストに挑んだものの、即座に、チームの一員になるには体が小さすぎることに気がついた。レスリング部のテストも受けてみたが、ミネソタ大学にはパートタイムのアマチュア・コーチしかおらず、練習も週に1、2時間しかしていないことがわかった。しかもあろうことか、肝心の大学入試に落ちてしまった。
意気消沈したボーローグは、ヒッチハイクをしながら家に帰ろうとしていた。だがチャンプリンが彼を大学の入試事務局へ連れていき、彼が学べるプログラムはないかときいてくれた。幸いにも、ミネソタ大学は学力不足の貧しい若者を対象とする短期大学を併設したばかりで、学生をほしがっていた。ボーローグは、この「落ちこぼれの受け入れ先」としか思えない学校に、鬱々とした気分で入学願書を提出した。しかし4年生への編入をめざすと決意し、どのコースでもしっかり勉強した。そして好成績をあげて、目的を果たした。編入時には専攻科目を決めるよう求められ、ボーローグは森林学を選んだ。のちに彼自身が述べたように、「ただ野外で体を動かすことが好きだった」からだ。
1904年に創設されたミネソタ大学の森林学部は、この分野では米国最古の教育機関のひとつだった。ミネソタ州の林業界は、この学部に、訓練を受けた人材の育成を求めていた。当然カリキュラムはほぼ、林業経営に関連した科目だけで構成されていた。学生たちは、測量機器の使い方や、伐採道路の建設方法、樹木の植え方と間引き方、木材製品の等級のつけ方を習った。森林を、自然の生態系ではなく、時間をかけて栽培する農場――木材を製造する自然の工場――とみることを教わった。木はひとつの区画にひとつの種を植え、収穫するために育てる作物であった。そこから車で数時間ほどのところにあったウィスコンシン州では、アルド・レオポルドが資源保全の倫理について講義をし、土地管理者に生態系のことを教えていた。しかしミネソタ大学森林学部では、資源保全や生態学の科目はひとつも用意されていなかった。レオポルドの教え子たちには考えられないことだが、土壌学のカリキュラムさえ組まれていなかった。全体論的な観点がすっぽり抜け落ちていたのだ。
ボーローグもまた、そのような観点は持ちあわせていなかったようだ。あまりに忙しくてそれどころではなかった。授業料を捻出するため、週に40時間以上も働いていた。
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ボーローグが婚約者と出会ったのは、ソードを離れてわずか数週間後のことだった。その女性、マーガレット・グレイス・ギブソンも、同じレストランでウェイトレスとして働いていた。率直な性格の黒髪の娘だった。うっすらとそばかすの散った色白の肌は、スコットランドの祖先から受け継いだものだった。父親のトマス・ランダル・ギブソンは、1865年にグラスゴーで生まれ、幼児のころに海を渡ってニューヨーク州北部に移り住んだ。
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3ヵ月後の卒業は、人生最高の瞬間になるはずだった。しかし偶然にもその日、森林局から一通の手紙が届いた。予算削減のため、採用できなくなったという。再度志願したい気持ちがあるなら、夏にはご希望に添えるかもしれないとのこと。それは、まさにボーローグが避けたかった状況だった。結婚したのに、生計を立てるめどが立たないとは……。マーガレットは、わたしのお給料で何とかやっていけるわよと言った。そしてボーローグに、森林局の採用を待つあいだ、大学院の授業科目をいくつか受けてはどうかと勧めた。
あのステークマン先生(植物病理学科の教授)のもとで勉強すればいいじゃないの。
シャトル育種
ボーローグは、1945年の晩春から夏にかけての毎日を、何千品種ものコムギとともに過ごした。若いコムギが植わった畝のあいだにひざまずき、さび病菌の病微である、盛り上がった粉っぽい斑点を探した。それが葉か茎に見つかれば、そのコムギを引き抜いて破棄した。11万本すべてを調べ終えると、またはじめから同じことをくり返した。
チャピンゴ(メキシコにある農業試験場)ではさらに2名の助手が加わった(新メンバーにはステークマンの教え子であるハーラーの根気強い説得により、伝統に反して女性が選ばれた)が、やはり際限のない作業に思えた。ひとりあたり10秒で1本のコムギを点検するとしても、5人の目と手で畑を一巡し追えるのに2週間はかかる。さび病をいち早く発見するのは、少々悠長すぎた。彼らは作業にかける時間を増やすことにした。
アパートからチャピンゴまでの通勤時間1時間半がもったいなかったので、ボーローグは彼の「研究室」である彫っ立て小屋に寝泊まりし、むき出しの地面に寝袋を広げて眠った。ほどなく、「ロデオドレス」と呼ばれる「人間の血を吸いぎて飛べなった小さな蚊」をいとわしく思わなくなり、「みんな、この虫が腕から地面にぽとりと転げ落ちるのをただ眺めて」いられる境地になった。
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畑に出ているときに、解決策がひらめいた。ハーラーに話したとおり、ボーローグはふたつの育種法を組み合わせたいと思った。ひとつはむずかしいが従来どおりの方法で、もうひとつは、同等にむずかしいが、まったく新しい方法だ。第1の伝統的な方法は、大量交配により、好ましい品種の誕生を期待して数多くの品種をかけ合わせる。遺伝学的に言えば、大量交配は、膨大な数のダーツを、いずれどれかが的の中心に刺さると信じて投げ続けるようなものだ。おおぜいのスタッフをかかえる大きな研究所に向いていた。ボーローグと彼の小さなチームがこれをやろうとすれば、何万本ものコムギの種をまいて育て、1本1本の花粉を個別に採取して、手作業でめしべに受粉し、1本1本に実った殻粒を収穫し、さらにその種子をまいて育て、交配の結果を確認しなければならない。
ハーラーは、ボーローグの研究チームに十分な資源と人手があるかどうか心配したが、その方法は可能だと考えた。しかし、ボーローグが考案したもうひとうのやり方、のちに「シャトル育種」と呼ばれるようになった新しい手法には猛反対した。
1968年、米国の支援当局の公刊がロックフェラー財団のこのパッケージを「緑の革命」と名付けた。同じ年、ボーローグは、オーストラリアで開かれたコムギ関係の会合で勝利宣言とも言うべきスピーチをした。彼はこう述べた。20年前、メキシコの農家は、作付面積1アールあたり約8.5キログラムのコムギを収穫していました。いまやその数値は、1アールあたり28キログラム近くにまで増えています。同じ土地から、3倍も収穫があったのです。
同じことがインドでも起ころうとしています。インドでは、緑の革命によって誕生した最初のコムギを、1964年から65年にかけての生育期に試験栽培しました。大成功をおさめたので、翌年、政府はおよそ2800ヘクタールの土地で試験栽培を実施しました。いまそのコムギは280万ヘクタールの畑を覆い尽くしています。同じことがパキスタンでも起ころうとしています。しかしいまお話した成果には、緑の革命によって開発され、アジア全域に広まりつつあるイネ(やはり茎が短く病害に強い品種)はふくまれtいないのです、と。
誰もが手放しで評価してくれたわけではなかった。1968年には、緑の革命は環境や文化や社会の破壊を招くと批判する声もあがっていた。しかしボーローグは、そしてアジアや南米の国々の政府も、こうした苦言には取り合わなかった。メキシコでは、ロックフェラー財団のプログラムが、国際トウモロコシ・コムギ改良センターという常設の研究機関に生まれかわりスペイン名(Centro Internacional de Mejoramiento de Maiz y Trigo)のイニシャルをとって、CIMMYTという略称で呼ばれるようになった。[1966年にメキシコ政府の管轄を離れて独立し]その初代所長にはウェルハウゼンが就任した。CIMMYTは、フォード財団がボーローグの取り組みに倣ってマニラに設立した国際イネ研究所とともに緑の革命を主導していくことになったのだ。現在このようなセンターが15ヵ所にあり、国際農業研究協議グループ(元の名称の頭文字をとってCGIARと呼ばれている)という機関がこれを束ねている。あまり知られていないが、この機関は、世界の農業にとってきわめて重要な役割を果たしているのだ。
ボーローグ自身も、1970年にノーベル平和賞を受賞したあとでさえ、広く名を知られることはなかった。しかし一部の科学者、ジャーナリスト、環境保護論者にとって、彼と緑の革命は模範となった。