じじぃの「科学・地球_382_魔術師と予言者・インドの農業・短稈コムギ」

Wheat in India and the Legacy of Dr. Norman Borlaug

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JiH11UcCqy8

Rajaram is the most successful wheat breeder alive


From east Asia to south Asia, via Mexico: how one gene changed the course of history

January 3, 2016 CIMMYT
Borlaug had sent a fewdozen seeds of his high-yielding, disease-resistant semi-dwarf wheat varieties to India to test their resistance to local rust strains. M.S. Swaminathan, a wheat cytogeneticist and advisor to the Indian Minister of Agriculture, immediately grasped their potential for Indian agriculture and wrote to Borlaug, inviting him to India.
Soon after the unexpected invitation reached him, Borlaug boarded a Pan Am Boeing 707 to India.
https://www.cimmyt.org/news/from-east-asia-to-south-asia-via-mexico-how-one-gene-changed-the-course-of-history/

魔術師と予言者―2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い 紀伊國屋書店

チャールズ・C・マン(著)、布施由紀子(訳)
現代の環境保護運動の礎となる理念を構築した生態学者ウィリアム・ヴォート=予言者派と、品種改良による穀物の大幅増産で「緑の革命」を成功させ、ノーベル平和賞を受賞した農学者ノーマン・ボーローグ=魔術師派の対立する構図を軸に、前作『1491』『1493』が全米ベストセラーとなった敏腕ジャーナリストが、厖大な資料と取材をもとに人類に迫りくる危機を描き出した、重厚なノンフィクション。
《人類の未来を考えるための必読書》

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『魔術師と予言者――2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い』

チャールズ・C・マン/著、布施由紀子/訳 紀伊國屋書店 2022年発行

第9章 魔術師 より

不完全なダブル

モンコンブ・サンバシヴァン・スワミナタン――ボーローグは「スワミ」と呼んでいた――は、ボーローグの友人となり、共同研究者となったが、状況がちがえば、スワミナタンを主役にした歴史がありえたことは想像に難くない。スワミナタンは、インドに緑の革命の「パッケージ」を導入するにあたって中心的な役割を果たした。そのパッケージは、農業化学物質(肥料と殺虫剤)の組み合わせと、細心の管理(おもに灌漑)による給水、その両方に良好な反応性を示す高収量品種の種子で構成される。1930年代にメキシコで開発されたこのパッケージは、アジアで(それもとくに南アジアで)品種改良したコムギと、やはり品種改良したイネが出会えば、多大な効果を発揮すると思われた。何億人もの生活が一変するはずだ。ヴォートとその弟子たちはいまにも破滅のときが訪れようとしていると予測したが、それを覆すことができる。ただし、そのためには社会の大変革が必要だ。スワミナタンの名は、とりわけ欧米ではほとんど知られていないが、彼の業績はボーローグの仕事よりも、多くの人々に影響を与えた。スワミナタンはのちに、みずからが実現に力を尽くした緑の革命を批判するようになった。彼は魔術師から予言者に――あるいはほぼ予言者に――転じたのである。
スワミナタンは、1925年に当時の英領インド帝国マドラス管区で生まれた。この行政区には、現在のインド南東部の大半がふくまれていた。スワミナタンのファーストネームであるモンコンブは、彼の父親の先祖が暮らしていた村の名前だった。彼は医師であった父親の診療所の近くで育ち、学校の長期の休みのあいだは、祖父のコメ農業で過ごした。その農地は何世代も前から一族に受け継がれてきた。遠い昔の祖先がヒンドゥー聖典に精通していたことを認められ、地元の首長から賜った土地だった。
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ボーローグと同様スワミナタンも、解決策は、より短くて丈夫な茎を持つコムギを育種することだと判断した。そしてボーローグと同じように、インドの植物コレクションか短稈種を探した。米国の膨大な貯蔵量にはとうていおよばなかったものの、スワミナタンは短稈種をいくつか見つけ出し、研究所で試験栽培を実施した。しかしボーローグと同様、彼も、茎が短ければ小穂(しょうすい)も小ぶりになり、殻粒がほんのわずかしか実らないことを知った。膨大な数の品種にあたらなければ、望むような遺伝子は見つけられそうになかった。スワミナタンは交配を続けた。その一方で、みずから新しい遺伝子を作り出してみようとも思った。
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1958年、いらだったスワミナタンは、研究所を訪ねた日本人のコムギ遺伝学者、木原均に試験農場を見てもらった。木原は、冬季オリンピックの選手団長を務めたこともあるスキー愛好家としても知られていた。遺伝学のパイオニアで、コムギのゲノム構造をはじめて明らかにし、現在使用されている「ゲノム」という用語の定義を確立した。その後、定年を機に教職を退いたものの研究は続け、植物に関する膨大な知識を増やしていった。じつに尊敬すべき人物だった。スワミナタンが目下の難題について相談すると、木原はその場で、日本にきわめて茎の短いコムギ品種が存在することを教えた。日本はまだ戦後復興の途上にあったので、木原はスワミナタンに、米国の育種家オーヴィル・ヴォーゲルから短稈種のサンプルを送ってもらうほうが手に入れやすいだろうと告げた。
スワミナタンはヴォーゲルに手紙を書いた。ヴォーゲルは返事をよこし、サンプルは喜んでお送りするが、自分の研究対象は冬コムギなので、暑いインドではうまく育たないだろうと言ってきた。彼はまた、メキシコにいる男性にサンプルを送ったことも明らかにした。その研究者は、人里離れた辺鄙な土地で尋常でない苦労を重ねて育種に取り組み、日本の短稈コムギと現地の品種を交配して、スワミナタンが役立てられそうな春コムギの品種の品種を開発したという。その名はノーマン・ボーローグ。スワミナタンはすぐにメキシコシティに手紙を送った。

失敗した革命

2016年には、記者のハリシュ・ダモダランがデリー郊外の村、ジャウンティを訪ねた。そこでは、1964年にスワミナタンがふつうの農家――ほとんど土地を持たない人々――を選び、新品種の種子の試験栽培を頼んでいた。当時を知る村人は80歳を超えていたが、その年のことはよく覚えていた。収穫量が3倍になったのだという。「あれは奇跡でした」と、ある男性がダモダランに語った。「みんな、人生がすっかり変わりましたよ」と。わたしは1980年代中ごろに、ある記事を書くため、マハラシュトラ州の西部を旅したことがある。インタビューをすると、新しい種子で収量が大幅に増えたと語る農民が次から次へと現れた。みんな、裕福ではない人たちばかりだった。ある男性は静かなプライドをにじませながら、いまでは自分と兄弟の全員が自転車を持っていると言った。こうした地域では、偶然にしり意図的にしろ、パッケージが比較的平等に配られていた。
ボーローグは、2009年に亡くなる直前まで働き続けた。ある日本の資産家[笹川良一]から資金提供を受け、緑の革命の恩恵を受けてこなかったアフリカのためにも高収量品種を開発する事業に取り組んだ。90歳の誕生日には、彼の功績を称えて開かれた米国国務省の祝賀会に出席した。ボーローグはウガンダから戻ったばかりだった。そこで新種の恐ろしいさび病菌と闘っていたのだ。
わたしが最後にボーローグと話をしたのは、彼が亡くなる数年前だった。過去の批判について尋ねてみると、ボーローグは、批判派はこちらが仮定的な問いかけをすると、いっさい答えたがらなかったと言った。もし緑の革命による収量増加がないままに、人口と富だけが同じだけ増加していたら、いま世界はどうなっていただろう。肥料の過剰使用、土壌の水分過剰、灌漑計画の不備による土中の有害塩分増加――どれもが現実の問題だ。しかしこうした問題をかかえたとしても、1968年のインドのような飢饉を繰り返すよりはましなのではないか。

ボーローグはわたしに、ほとんどの住民が食糧不足に苦しんでいる地域を訪ねたことがあるかときいた。「ただ貧しいだけじゃない。現実に、みんなが四六時中、腹を空かせているようなところだ」。わたしは行ったことがないと答えた。すると彼は、「問題はそれだ」と指摘した。「わたしがこの事業に取りかかった時代には、そういう状況が目に入ったものなんだよ」