じじぃの「科学・地球_379_魔術師と予言者・火・太陽のエネルギー」

Top 10 Largest Solar Power Plants in the World

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8wUtvvZPu3w


Top 5 Largest Solar Power Plants of the World

11/4/19 SolarInsure
●As of June 2017 China and India have taken over as the leading developers of large scale solar projects.
U.S. demand for solar power is surging despite an economic recession, thanks to government financial incentives, some easing in credit availability, and increasing public recognition of its environmental benefits. Although the largest utility scale plants are outside the United States, 2 Plants currently in construction in California and New Mexico will balance the European dominance in large scale solar utility projects.
https://www.solarinsure.com/largest-solar-power-plants

魔術師と予言者―2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い 紀伊國屋書店

チャールズ・C・マン(著)、布施由紀子(訳)
現代の環境保護運動の礎となる理念を構築した生態学者ウィリアム・ヴォート=予言者派と、品種改良による穀物の大幅増産で「緑の革命」を成功させ、ノーベル平和賞を受賞した農学者ノーマン・ボーローグ=魔術師派の対立する構図を軸に、前作『1491』『1493』が全米ベストセラーとなった敏腕ジャーナリストが、厖大な資料と取材をもとに人類に迫りくる危機を描き出した、重厚なノンフィクション。
《人類の未来を考えるための必読書》

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『魔術師と予言者――2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い』

チャールズ・C・マン/著、布施由紀子/訳 紀伊國屋書店 2022年発行

第6章 火――エネルギー より

巨大なランプシェードをさかさまにひっくり返したような

歴史学者たちは、ローマ帝国滅亡後のヨーロッパの時代を「暗黒時代」と呼んでいる[文化、芸術、経済などが停滞したことから]。今日、わたしたちは、学問も芸術も生き長らえて栄えたことを知っている。それでも、太陽が利用されることはほぼなくなったのだ。裕福な人々は、別荘や邸宅の南面にガラス窓を取り付けなくなった。貧しい人々は、小屋を建てる角度を工夫して陽光を採り入れようとはしなくなった(この意味では、暗黒時代は確かに暗い時代だった)。ルネサンス時代の幕開けまで、ヨーロッパ人は温室やサンルームを設置しようとはしなかった。自然科学者が太陽の光とガラスの関係を理解したのは、ようやく18世紀に入ってからのことだ。スイスの科学者オラス・ベネディクト・ド・ソシュールが「太陽光線がガラスを通ると、部屋や馬車の客室などの場所があたたかくなる」と述べた。彼は1784年に小さな木箱の側面にコルクを張って断熱し、てっぺんにガラス板を取り付けて、世界初の「熱箱(ホットボックス)」を製作した。そして、水を満たした容器をこの箱の中に入れ、よく晴れた夏の日に戸外に置いてみた。するとみごとに、たちまち水が沸騰しはじめた。
それから100年近く経ったころ、フランスの数学教師オーギュスタン=ベルナール・ムショーがド・ソシュールのアイデアをもとに、太陽光を鏡で集めるという独自の工夫を試みたのだ。むろん、それまでに多くの人が鏡を利用して太陽の光を集光してきた。中国の農民たちも、3000年以上も昔から、小さな鏡を持ち歩き、火をつけるのに使っていた。しかし、陽光と鏡を使って湯を沸かし、その水蒸気を利用して蒸気機関を動かしたのは、ムショーがはじめてだった。
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植民地政府当局はこれ(ムショーが書いた報告書)を読んで感激し、1878年にパリで開催予定だった万博博覧会に、アルジェリア代表ろして太陽熱発動機を展示してほしいと依頼した。ソシューが「世界史上最大の鏡」と控えめな説明で紹介したこの装置は、製氷機を稼働させて、訪れた客を驚かせた。なんと、太陽熱を使って氷を作ってみせたのだ。ソシューはこの博覧会で金メダルを受賞した。さらに、ほとんど目が見えず、耳も聞こえなくなった彼に、レジオンドヌール勲章シュヴァリエが授与されたのである。
それから2年後、ムショーは探求の旅に終止符を打った。視覚と聴覚の障害に負けたのではない。石炭に負けたのだ。歴史学者の推計によれば、1800年にはすでに、英国のすべての蒸気機関が5万馬力の出力を生み出していた。1870年には、この値が26倍に増えて、130万馬力が出せるようになっていた。太陽エネルギーの信奉者が雨の日に役立たない鏡をどうにかするのを、誰も待とうとはしなかったのだ。ムショーは、ストックの安定した石炭から、不安定なフローである太陽光に転換するよう社会を説得しようとした。だが社会は無情なまでに関心を示さなかった。
しかし、太陽光の価値を認めた者もいた。なかでも注目すべきは、スウェーデンアメリカ人のエンジニア、ション・エリクソンだ。彼は米国海軍初の就役装甲艦、”モニター”の設計者として名を知られている。ムショーの最初のデモンストレーションから4年後の1868年、エリクソンは来たるべき「炭田の枯渇」に備えるには、「太陽光を集中させて得られる熱」の利用が有効であると明らかにした。8年後、自己PRのために書いた本の中で、エリクソンは7種類の太陽熱発動機を発明したと主張したが、それを誰にも見せなかった。彼は、自分の発明品こそが世界初の真の「太陽モーター」だと述べ、ムショーの考案した装置は「ただのおもちゃだ」と冷笑した。
エリクソンは才能に恵まれたエンジニアであったが、ヴェイパーウェア[概要だけが発表され、いっこうに発売されない製品]のパイオニアでもあった。

売り買いする商品ではない

1921年アインシュタイン光電効果を解明した功績に対し、ノーベル物理学賞を授与された。しかしチャールズ・フリッツ(銅の上にセレンを重ねたパネルを自宅の屋根に置き、発電することに成功した)の発明は、めずらしい実験で終わってしまった。それ(現在では太陽電池パネルと呼ばれるもの)は魅惑的ではあったが、役には立たなかった。太陽エネルギーのうちのごくわずかだけを電力に変換するだけではあまりに効率が悪く、実用的ではなかったのだ。それから数十年のあいだに散発的に太陽電池パネルの研究がおこなわれたが、ほとんど改善は見られなかった。ロックフェラー財団でボーローグの上司だったウォーレン・ウィーバーも、1949年にこのことを嘆いている。進歩がなかったことが証明されたのはその4年後、ベル研究所の物理学者ダリル・チェイピンがセレンのパネルを並べてテストしたときだ。何をしてみても、さんさんと降り注ぐ太陽エネルギーのうち、電力に変換できたのは、1パーセント未満にとどまった。しかしやがて、チェイピンのふたりの同僚が驚くようなことをやってのけた。
そのふたりの研究者、カルヴィン・フラーとジェラルド・ピアソンは、1947年にベル研究所で発明されたトランジスタの改良担当チームのメンバーだった。彼らは研究室で作られた繊細で取り扱いのむずかしい試作品を、コンピュータ産業の基盤となる大量生産可能な製品に変えることに成功した。
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フラーとピアソンは、ひとつのタイプのドーピングされたシリコン(余分に電子を持つ)の薄い層を、もうひとつのタイプ(余分に穴を持つ)の上に重ねた。それから、この小さな組立品を回路――電線の輪――と電流計につないだ。デスクランプのスイッチを入れてシリコンに光をあてると、すぐに電流計が反応し、2層シリコンが電流を発生させたことがわかった。太陽光でも同じことが起きた。フラーとピアソンは、光子が上の層に侵入し、その力で余分な電子を追い出し、下の層に跳び込ませていることに気づいた。それで電子の流れ(電流)が生まれて、電線に入り込んだのだ。こうして、新しいタイプの太陽光パネルが偶然に誕生した。
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石油が底をつくという不安が膨れあがるにつれて、世界中の国々で次第に大規模な太陽光発電所(ソーラーパーク)の建設が進んだ。アジア最大の施設は(少なくともわたしがこの本を書いている時点では)、インド西端、グジャラート州のチャランカ・ソーラーパークだ。州最大の都市アーメダバードから北西へ160キロメートルの不毛の地に建設された広大な施設である。比較的最近、わたしがアーメダバードを訪れたときには、飛行機の窓からチャランカ・ソーラーパークがきらきら輝いているのが見えた。