じじぃの「歴史・思想_340_エネルギーの世紀・太陽光発電」

2011 Tokai Challenger 2 - Winner Of The World Solar Challenge 2011 #DigInfo

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wo_cfsXfGz0&feature=emb_title

Sharp Solar calculator

『探求――エネルギーの世紀(下)』

ダニエル・ヤーギン/著、伏見威蕃/訳 日本経済新聞出版社 2012年発行

輝く光の錬金術 より

太陽電池

現在、風力が投資のかなりの部分を占めているいっぽうで、再生可能エネルギー産業がもっとも集中的に研究しているのは、なんといっても太陽の力をじかに制御する方法、つまり光電池(PV)とも呼ばれる太陽電池の探究である。
さまざまな面で、太陽電池再生可能エネルギー・テクノロジーの純粋の完全形といえる。太陽は地球のほとんどの地域にふんだんにある資源だ。太陽電池さえ作れば、運用する複雑な産業施設は必要がない。電池(住宅の屋根に設置できるような簡素なシステム)は、数時間で取り付けられる。送電線すら必要とは限らない。太陽光をただ電気に変えるだけだ。
この変換は、中世の錬金術師が成し遂げたと主張している芸当――卑金属を黄金に変えるという”偉大な業”――にも匹敵するように思える。しかし、中世の魔術師たちの魔法とはちがい、この現代の錬金術はほんものだ。光が表面を貫き、出るときは電気になる。それが基本的な物理学だ。そこにアインシュタインの偉大な見識がある。
太陽電池の市場は、2000年代半ばから膨大に成長しているが、風力とくらべるとまだかなり小さい。しかし、太陽の力をじかに制御する太陽電池は、再生可能エネルギーの分野でなによりも高い期待を引き起こしている。それには当然の理由がある。太陽電池は数億年を節約する――有機物質が化石燃料に変わるのに、それだけの時間がかかる。MITの物理学者アーネスト・モニッツの言葉によれば、太陽エネルギーはいずれ「テントのもっとも高いポール」、つまり究極の発電源になる。だが、いつの話なのか? それに、光起電は今後、電力システムを根本的に改革するだろうか? このシステムは、発電所と高圧線で成り立っている送電網を、各家庭やオフィスビルのミニ発電所という方式に移行させるのか? そこで石炭、天然ガス原子力、風力すら使わずに、おのおのが発電するのか? それとも新型の発電所がどこでも見られるようになり、ソーラーパネルで発電した電気がそこから分配されるのか?
道すじがどうであれ、規模という障害が立はだかっている。規模を拡大し、ソーラーパネルが増殖して世界中の屋根に設置されるようにするのは、コスト競争が欠かせない。それは今後のイノベーションに左右される。現在、コストはだいぶ下がったかもしれないが、いまだに競合する発電源よりも高い。大量生産も、本格的な規模に求められるほどのコストダウンをもたらしていない。

「徹底した調査」

1905年にアインシュタインが紙にペンを走らせたときよりもずっと前に、昔の科学者や技師は、光起電効果をすでに観察していた(つまり、ある状況で光が電気を発生することは知っていた)――ただ、説明はできなかった。少数の科学者や技師が、セレンという元素を使い、太陽光や蝋燭の光を当てることで電流を発生させた。シーメンス社を創立したヴェルナー・フォン・ジーメンスは、「光のエネルギーの電気エネルギーへの直接変換は、まったく新しい物理現象であり、徹底した調査を必要とする」と述べている。なぜなのかという説明は、アインシュタインまでなされなかった。
その当時まで、光はエーテルを移動する涙だというのが、物理学者たちの定説だった――宇宙を覆っている。見えない存在だとされていた。アインシュタインの考えは異なっていた。光起電効果に関する論文でアインシュタインが、光は量子または光粒子と呼ばれる小さな粒子から成っていて、秒速30万キロメートルで移動するために目に見えない、と説明した。
この論文によって、光起電の反応を説明する科学が確立した。光起電式の太陽電池に陽光が降り注ぐと、光量子が吸収される。それは半導体内の電子を飛び出させる。シリコンから放出された電子が細い通り道を流れ(水が運河を流れるように)、それが電流になる。光粒子は、エネルギーのひとつの形であり、電子もおなじだ。

だが(アメリカは石油と比べ太陽電池はビジネスにならないとした)、1980年代初頭にアメリカのソーラー開発計画が大幅に縮小されたあとも、太陽電池が一定規模のビジネスになる見通しを維持した国があった。日本である。日本の貢献は、きわめて重要だった。

1970年代のエネルギー危機を、日本は克服できたわけではなく、なんとか切り抜けたにすぎなかった。日本にはほとんど天然資源がなく、エネルギー独立など夢のまた夢だった。しかし、変動の厳しい原油市場に依存している日本人は、当時の通産審議官の言葉によれば、「大きな懸念を抱いていた」。
それを裏付けるように、イラン革命前後の第二次オイルショックのさなか、日本政府は、深夜まで夜の娯楽がつづいていることで有名な銀座のネオンを暗くするよう命じた。
堺屋太一のもとで、新エネルギー・産業技術総合開発機構が、発電の燃料も含めて、石油の代替品の育成と開発に着手した。この国家の新政策が、太陽電池の開発を促進し、助成することになった。サンシャイン計画のもとで政府の資源が研究に投入され、日本はグローバルな太陽電池開発の中心になった。大手企業が国家の戦略目標については強調つつ、おたがいに激しく競争するという、日本特有の道すじで、ソーラー産業が前進していった。
まもなく、日本企業の製造する太陽電池が、至るところに出現するようになった――家庭用電源ばかりではなく、大きな電力を必要としない応用製品にも”バッテリー”として組み込まれた。電気時計はそのひとつだが、もっとも有名な応用製品はやはりシャープの発明だった。どんどん安くなり、どこでも見られるようになった、ソーラー電卓である。