じじぃの「人の死にざま_1715_樋口・季一郎(陸軍軍人・関東軍)」

 満州国 (blog.zaq.ne.jp HPより)

偉大な日本人「2万人のユダヤ人を救った正義の人」樋口季一郎物語(上) Actionなう!
●陸軍きってのロシア通「樋口季一郎
樋口は1888年明治21年)8月20日兵庫県淡路島において奥浜久八とまつ夫妻の間に長男として生まれた。11歳の時に両親が離婚し、樋口は母方の実家に引き取られるが、18歳で岐阜県大垣市の樋口家の養子となり、以降樋口姓を名乗っている。
http://action-now.jp/archives/6377
エルサレムにあるゴールデンブックの4番目に刻まれた日本人
杉原千畝氏を「東洋のシンドラー」として絶賛する番組は多くある。
しかしこの杉原千畝氏より多くのユダヤ人を助けた樋口季一郎氏を扱う番組が皆無なのは何故か?氏はイスラエル建国の功労者の氏名が刻み込まれた、エルサレムにあるゴールデンブックにその氏名が刻み込まれている。
http://blog.goo.ne.jp/ss007_2007/e/3e641909f291165c7fd4a434db5b193d
『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1996年発行
関東軍軍人に救われたユダヤ (一部抜粋しています)
ユダヤ人を助けた日本人は外交官の杉原千畝だけではありません。陸軍軍人だった樋口季一郎少将(後に中将)は満州(現中国東北部)で2万人のユダヤ人難民の生命を救いました。
樋口はポーランド駐在武官として勤務していた昭和初年、ソ連国内を1ヵ月ほど旅行しました。どの地方も貧しく、中でもグルジア地方の貧困は目をおおうものがありました。この地で一人のユダヤ人の老人から次のような不思議な話を聞かされました。
「日本は太陽の昇る国で天皇という方がいる。その天皇こそがメシア(救世主)なのだと思う。あなたたち日本人はわれわれユダヤ人が悲しい目にあったとき、いつかどこかできっと助けてくれるにちがいない」。ユダヤ人はソ連国内でも迫害された民族だったのです。
それから十年後の1937年(昭和12年)8月、樋口は満州関東軍ハルピン特務機関長として赴任しました。特務機関長というのは軍の裏方的な役目です。
翌1938年3月8日、樋口のもとに重大な情報がもたらされました。満州と国境を接したソ連領のオトポールの駅で吹雪の中、2万人のユダヤ人が立ち往生しているというのです。ナチスの迫害をのがれ、零下30度のシベリアから3千キロを無蓋(むがい)列車につめこまれてきて、満州国の外務部(外務省)に入国を拒否されたためでした。
ヒトラーが率いるドイツは1933年からユダヤ人の迫害を始めました。日本は、ソ連とその共産主義の脅威に対抗するために、ドイツとの間に日独防共協定を終結しました。こうした中で、日本と一体の関係にあった満州国は、ユダヤ人の入国を認めると関東軍の意向に反することになるのでは、と恐れたのです。
樋口のもとには難民を助けてほしいとの切実な訴えがきました。樋口の権限は限られ、ことによっては全陸軍を相手にし、クビを覚悟しなければできない行動でした。しかし、樋口は決断しました。満鉄総裁・松岡洋祐(後に外相)に電話をし救出列車の手配を要請しました。満州国にもユダヤ人の入国許可を働きかけました。
2日後の3月12日、ハルピン駅に難民をのせた列車が到着しました。救護班が車内にとびこみ、病人や凍傷で動けない人たちをタンカで運びだしました。凍死者十数名。救援列車の手配がもう1日おくれたら、これだけの犠牲ではすまなかったはずです。
案の定、ドイツは日本に強硬な抗議をしてきました。樋口は関東軍司令部に呼び出され尋問を受けましたが、処罰はされずにすみました。
戦後、ソ連は樋口を戦犯として引き渡すよう要求しました。日本を占領下アメリカのマッカーサー総司令官はこれを拒否しました。樋口に助けられたユダヤ人たちが、アメリカ政府に「樋口を救え」と運動したのです。