じじぃの「歴史・思想_300_ベラルーシ・ユダヤ人との知られざる関係」

History of Jews in 5 Minutes - Animation

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fIYHMdOr5Aw

ミンスク

ウィキペディアWikipedia) より
ミンスクベラルーシの首都。首都としてどの州にも属さない市である。
1793年の第2回ポーランド分割によって、ミンスクはロシアに併合される。ミンスク・グベールニヤ(ミンスク県)の中心都市になる。ポーランド語の地名はロシア風に置き換えられた。1812年にはフランス軍ミンスクを一時占領。19世紀は、都市としてミンスクが整備された時代であった。大通りは舗装され、1836年には公立図書館も完成。19世紀後半に、ミンスクを経由するモスクワ・ブレスト・ワルシャワ間の鉄道が開通、さらにウクライナ方面への鉄道も開通し、ミンスクは重要な鉄道の分岐点として急速に発展した。
1897年の人口は91,494人で、その半数近くがユダヤ人であった。

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ベラルーシを知るための50章』

服部倫卓、越野剛/編著 明石書店 2017年発行

ベラルーシユダヤ人の知られざる関係――「森と湖の国」から「砂漠の国」へ より

現在のベラルーシに住むユダヤ人はおよそ3万人で総人口の0.3%に過ぎないが、かつてベラルーシにはユダヤ教ユダヤ文化の中心地であった。リトアニアポーランドの歴史と同様に、ベラルーシの歴史を語る上でユダヤ人を無視することは不可能であろう。ベラルーシはマルク・シャガールだけでなく、歴史に名を残す多くのユダヤ人を輩出しており、この章ではベラルーシユダヤ人との知られざる関係について触れてみたい。
ベラルーシユダヤ人が住み始めたのは14世紀、リトアニア大公ヴィタウタスの時代に遡る。ブレスト、トラカイ、グロドロなどにユダヤ人は商人として招かれ、多くの特権を得て共同体を築いた。18世紀のポーランド分割によりベラルーシ帝政ロシアに併合された。帝政ロシアユダヤ人定住地域を設けて、ロシア内地への移動を制限したため、19世紀末の国勢調査によれば、ベラルーシユダヤ人人口は91万人、総人口の14.2%を占めていた。ユダヤ人は都市に集中し、ヴィテプスク、モギリュフ、ミンスクの人口の過半数が、ピンスクも至っては4分の3がユダヤ人であった。ベラルーシユダヤ人は地域の産業や経済に重要な役割を果たした。ユダヤ人は居酒屋の主人であり、農村を回って歩く行商人であり、農民から穀物を買い付ける商人であり、農民たちの粗末な服を作る仕立屋であった。ロシア内地の農民とは異なり、ベラルーシの農民にとってユダヤ人は決して顔の見えない単なるイメージではなく、日常的に接する隣人だったと言える。
リトアニアベラルーシには正統派ユダヤ教の重要なイェシヴァが数多く集中していた。イェシヴァとはユダヤ教聖典であるヘブライ聖書とタルムードを研究し、ユダヤ教の指導者であるラビを訓練する学校である。19世紀初頭にベラルーシのヴォロジンとミールで創設されたイェシヴァは特に有名であるが、なかでもミール・イェシヴァの学生の多くは第二次世界大戦中、リトアニア杉原千畝が発給したヴィザによって救われることになる。現在大勢力となったハシディズム(ユダヤ教内部の敬虔主義運動)の一派であるハバド・ルバヴィッチ派もベラルーシに起源がある。
1881年ウクライナで発生した「ポグロム」(ユダヤ人に対する集団暴行)はベラルーシでは稀であった。後述するようにポーランドウクライナとは異なり、ベラルーシ人農村のあいだには宗教的、民族的なユダヤ人憎悪やナショナリズムにはほとんど見られなかったからであろう。19世紀を通して人口の爆発的憎悪と居住制限によって、ベラルーシユダヤ人の経済状況は悪化することになる。19世紀末になるとベラルーシ、特にミンスクシオニズムやブンドといったユダヤ人の政治運動の中心となった。
ベラルーシは定住地域のなかでもユダヤ人が最も稠密な地域であった。人口増加に伴い帝政期を通してベラルーシからはウクライナへ、特にオデッサを中心とする黒海沿岸へユダヤ人が移住した。さらに19世紀から20世紀にかけてアメリカやパレスチナへの移民の中心となった。
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ベラルーシユダヤ人はアシュケナージ系(アシュケナージとは中世ヘブライ語でドイツを意味する。中世後期頃から西欧での迫害を逃れてポーランドリトアニア方面へ移住したユダヤ人の子孫を指す)で、イディッシュ語を日常語としていた。イディッシュ語とは、高地ドイツ語に属するゲルマン系言語で、ドイツ語、スラブ語、ヘブライ語の語彙からなり、ヘブライ文字を使って右から左に書く。スラブ語の隣人たちの語彙を巧みに取り入れたイディッシュ語の豊かさは、しばしば「不純な」ドイツ語として侮蔑され、ユダヤ人知識人の間でも「崩れたドイツ語」「卑しい言語」と見なされてきた。とこらが、ロシア革命後創設されたベラルーシ共和国ではイディッシュ語は、ロシア語、ポーランド語、ベラルーシ語とともに公用語として認められた。革命後も人口の40%をユダヤ人(1926年に5万3686人)が占めたミンスクは、キエフやモスクワなど他のソ連の共和国の首都に比べても最も「ユダヤ的な」都市であったといえる。ミンスク中央駅はじめ公共の建物はすべてイディッシュ語ヘブライ文字で!)の掲示がさなれていた。イディッシュ語による裁判や学校教育が導入され、国立劇場ではイディッシュ語劇が上演され、イディッシュ語の新聞や雑誌が盛んに出版された。ミンスクソ連最大のイディッシュ文化中心都市となったのである。だが、1930年代末になるとロシア語を母国とするユダヤ人が増加し、同時に少数派の言語に対する弾圧が強まるとベラルーシでもイディッシュ語公用語としての地位を失ってしまう。
第二次世界大戦中のホロコースの最初で最大の犠牲は、戦時中ポーランド東部やバルト諸国を併合し、500万のユダヤ人口を擁したソ連で生じた。1941年6月22日の独ソ戦勃発から4日後の26日にはミンスクが陥落し、8月末までに全ベラルーシがドイツ占領下に置かれた。ミンスクをはじめ各地にユダヤ人を収容するゲットーがつくられ、1942年初頭までにベラルーシユダヤ人の半数が殺された。44年8月までにベラルーシだけで56万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となったといわれる。