じじぃの「歴史・思想_303_ベラルーシ・曖昧な民族意識」

古都ポロツク

ベラルーシで最も古い町

ポロツクはベラルーシ北部にある最古の町。ミンスクから250km、ドヴィナ川沿川の美しい町です。
古代スラブの歴史と文化の中心地で、11世紀に建立された聖ソフィア大聖堂が有名です。
http://tourismbelarus.net/pickup/polotsk/

ベラルーシを知るための50章』

服部倫卓、越野剛/編著 明石書店 2017年発行

土地の人間(トゥテイシヤ)の曖昧なアイデンティティ――ベラルーシ人ってだれ? より

ベラルーシ独自のアイデンティティを論じることは難しい。個性の強い民族や地域のひしめく中東欧のなかでは比較的影の薄い国だからである。両隣にあるロシアとポーランドの間で取ったり取られたりをくりかえすうちに、どちらの側とも似ているけれどちょっと違うという曖昧な独自性を獲得することになった。
ロシアとポーランドの間ということではウクライナリトアニアベラルーシと似たような歴史を持っているが、こちらはキエフ大公国リトアニア大公国という輝かしい歴史の記憶がアイデンティティの拠り所になっている。ベラルーシこそがリトアニア大公国の正統な後継国家だという議論もあるが、国の名前を持っていかれてしまった手前どうも分が悪い。ベラルーシ人はロシア人よりも強くソ連へのノスタルジーを抱いていると言われるが、それを誇ることのできる歴史的遺産が少ないせいかもしれない。しかしここでは影の薄さこそが他の東欧諸国にはないベラルーシの独自性だと主張してみたい。
ベラルーシにおいては他の旧ソ連共和国で起きたような民族紛争は起きなかったであるとか、ベラルーシ人はウクライナやロシアとは違ってユダヤ人虐殺(ポぐロム)を行なわなかったということがしばしば言われる。従順さを意味する「パミャルコーウヌイ」や我慢強さを意味する「チャルプリーブィ」というベラルーシごの形容詞を用いてその温和な性格が説明されることが多い。ただしこれはベラルーシ人の民族意識ナショナリズムが微弱であるということの裏返しと見えないこともない。ベラルーシ人の従順さや我慢強さをからかうソ連時代のジョーク(アネクドート)もいくつか存在しており、たちえば、以下のようなものがある。
  ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人をそれぞれ釘の突き出た椅子に座らせる実験が行なわれた。ロシア人は怒って椅子を蹴飛ばして、出て言ってしまった。ウクライナ人もびっくりして飛び上がったが、こっそり釘を抜いてポケットに入れて持ち帰った。ベラルーシ人も座ってから腰を浮かせたが、「必要ならはしかたがない」と言ってまた腰を下ろした。
ベラルーシの歴史の叙述は古都ポロツクを中心とした公国から始まることが多いが、歴史に登場した途端にキエフ・ルーシのヴラジーミル公によって征服されてしまうのは象徴的である。おの後もリトアニア大公国ポーランドロシア帝国ソ連と次々に支配者が交代し、戦争が起きるたびに土地は荒廃し、第二次世界大戦ではナチス・ドイツの占領下に多くの犠牲者を出した。このような歴史を概観すると、あらゆる災いは外からやってくるという受け身の世界観が抱かれがちである。隣国ウクライナにあったチェルノブイリ原発事故がベラルーシに深刻な放射能被害をもたらしたことも同じような文脈で語られてしまう。こうしたネガティブな体験から生じる被害者意識こそがすべてのベラルーシ人が共有可能なアイデンティティだと考える立場もある。こうしたステレオタイプを打ち壊すため、詩人ルィゴーリ・ボロドリンはチェルノブイリ事故を主題にした詩集『在れ』(2006年)で、放射線の後光に包まれた聖人としてベラルーシを表現した。それは戦災や原発事故を体験してもなお我慢強く柔和なイメージで語られる祖国にあえて反逆を呼びかける挑戦的なメッセージとなっている。
ベラルーシの国民的性格を示すためによく使われる。「トゥテイシヤ」という言葉がある。「トウト」は「ここ、この場所」を意味するので、トゥテイシヤは、「この土地の人々」と訳することができる。まだベラルーシという国家がなかった時代、「あなたは何人ですか?」と聞かさた農民は、自分がベラルーシ人だという意識がないため、「わしらはこの土地の人間(トゥテイシヤ)ですよ」と答えたという。出所がはっきりしないのがいささか怪しいが、ベラルーシ人の国民的なアイデンティティの希薄さを説明する際に今でもしばしば引用されるエピソードである。統一した国民意識が成立していない地域では、住民の帰属意識が日常のコミュニティを越えたところにまで広がらないというのは過去の日本でもヨーロッパでも見られる現象である。しかしベラルーシの場合はトゥテイシヤ的なアイデンティティを現在に至るまで問題にされ続けている点に特徴がある。