最初のウクライナ国家
ののとゆかいな仲間たち
1240年、チンギス・ハンの孫バトウ率いるモンゴル軍がキエフ領内に侵入。
キエフ市民は抗戦を続けたが、ついに城壁を破壊され陥落、キエフ公国は滅亡した。
以後250年間、モンゴル民族に支配される時代が続く。(タタールのくびき)
http://miyata.gotdns.com/Cafe/Ukraine.htm
ハールィチ・ヴォルィーニ大公国
ウィキペディア(Wikipedia) より
ハールィチ・ヴォルィーニ、ハーリチ・ヴォルイニは、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。正式名はルーシ王国 (ラテン語: Regnum Russiae)。
ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はルーシ系の諸公国の中でもっとも大きい公国の一つであった。その領土は、現在の西ウクライナ、西ベラルーシ、東ポーランド、北東ハンガリー、モルドヴァを含めていたが、政治的・経済的・文化的中心はヴォロディームィル、ハールィチそしてリヴィウという西ウクライナの3つの都市にあった。
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第2章 キエフ・ルーシ――ヨーロッパの大国 より
キエフ・ルーシは誰のものか
本来はキエフ・ルーシ王国といったほうが実態から見て公平であると思われ、現にウクライナの民族主義的色彩の濃い史書には王国と称するものもあるが、本書では慣例に従いキエフ・ルーシ公国(ないし大公国)と呼ぶことにする。
また「キエフ・ルーシ」という呼び方についても、当時は単に「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、本書でも本当は「ルーシ(大)公国」と呼びたいところである。ところがその後ルーシより派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として使われるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後世になって「キエフを都とするルーシ」という意味でキエフ・ルーシと呼ぶことが慣例となった。したがって残念ではあるが本書もこの慣例に従う。
さて、このキエフ・ルーシ公国はこれまでロシア(ソ連)史の文脈の中でとられられてきた。ロシア(ソ連)は大国であり、ウクライナは独立さえしていなかったから、それはある意味でやむをえなかった。しかしウクライナがロシアとは別個の国として独立してみると、あらためてキエフ・ルーシは誰のものかという問題が生じてくる。すなわちそれは、ロシアかウクライナかどちらの歴史に属するものか、キエフ・ルーシ公国の直系の後継者はロシアかウクライナかという問題である。
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いずれに分があるかはさておき、それではキエフ・ルーシ公国はどのような国であったか見ていくことにしよう。
モンゴルの征服
1125年のヴォロディーミル・モノマフ(1053~1125)の死後、1240年のモンゴルによるキエフ占領までの1世紀あまりの間にキエフ・ルーシ公国はゆっくり解体の過程に入った。
内政面では、大公および地方の公の継承方法が、当初の兄弟相続から父子相続に変わった。
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モンゴルは、ロシアやヨーロッパから「タタール」と呼ばれた。またバトゥは後にヴォルガ川の下流サライを都とするキプチャク(金帳)汗国(1243~1502)を建てた。
さて、このモンゴルの征服によってこれまで名目上残っていたキエフ・ルーシ大公国は終焉を迎え、長いモンゴル支配の時代に入るが、個々の諸公国がこれによってただちに消滅したわけではない。ほとんどの公国はモンゴルの支配に服し税を納めるかわりにその存続を認められた。そしてモンゴルの支配下で比較的平和な時代を送った。
後世のロシアの年代記作家や歴史家は、モンゴル支配を「タタールのくびき」と称してロシア史のもっとも暗い時代として描くが、これはいささか割り引いて考えたほうがよさそうである。モンゴルは破壊や殺戮(さつりく)それ自体を欲したのではなく、支配と税収が目的であった。抵抗すれば徹底的に報復するが、服従を誓って納税すれば自治を認めた。クリミアのように交易による収入が見込まれるところは直轄領となったが、ルーシの地はそのような旨(うま)みも少なかったので、間接統治が布(し)かれた。モンゴル人には、ルーシの中でもステップは彼らの故郷と同じで馴染みがあったが、モスクワの属する森林地帯には関心がなかった。
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なおここで読者はお気づきかと思うが、この貿易パターンはハザールだけでなく、スキタイ時代と酷似している。仲介者もギリシャやイタリア半島の地中海人である。このようにウクライナの地は、古代からクリミアを通じてギリシャ・ローマ(その後のイタリア)世界および海の世界とつながっているのである。この開放性は、他のスラヴ諸国の歴史が内陸的な印象を与えるのとは対照的に、ウクライナの大きな特色である。
最初のウクライナ国家
ハーリチ・ヴォルイニ公国は、キエフ・ルーシ公国の南西部にあったハーリチ(ロシア語名ガーリチ、英語名ガリシア)公国とヴォルイニ公国がが合わさってできたもので、1240年のキエフ陥落後も1世紀近く存続した国である。この国は従来はほとんど顧みられることがなかったが、ウクライナにとってきわめて重要である。
本章冒頭に述べたようにウクライナはキエフ・ルーシ公国の直系と主張している。キエフ・ルーシ公国の滅亡後ウクライナの地には継ぐべき国がなかったとするロシア側の言い分に対抗する根拠となるのがこのハーリチ・ヴォルイニ公国である。ウクライナの史家トマシェフスキーは、ハーリチ・ヴォルイニ公国はその最盛期には現ウクライナの9割の人口が住む地域を支配しており、「最初のウクライナ国家」だとしている。
1199年ヴォロディーミル・モノマフの玄孫(曾孫の子)にあたるヴォルイニ公ロマン(在位1173~1205)がハーリチ、ヴォルイニ両公国を合併し、新王朝を開いた。同公は1200年キエフを占領したが、もはやキエフに魅力を感じず、ハーリチにとどまった。それでも同時代人は彼を「全ルーシの君主」と呼んだ。
息子のダニーロの治世(1238~64)は、モンゴルの来襲と重なり多難であった。ダニーロはキプチャク汗国の都サライまで出頭し、バトゥに臣従の礼を示さねばならなかった。
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ダニーロの死後は各国の干渉を招き、1340年代になって、ヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された。これは最初にオレフ(10世紀初めルーシを支配したヴァリャーグの公)がキエフを占領してから約450年、最後の男系レフ2世(在位1315~23)は始祖リューリクから数えて14世代目であった。こうして「最初のウクライナ国家」は消滅した。そしてハーリチ・ヴォルイニ公国の領域を継ぐ独立国は二度と現れることはなかった。