リトアニア大公国 (1387年頃の領土)
リトアニア大公国
ウィキペディア(Wikipedia) より
リトアニア大公国は、13世紀から1795年のあいだにベラルーシを中心とした地域を支配した国家である。
その全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。このルーシ人は、のちのベラルーシ人やウクライナ人の先祖に当たり、やがてリトアニア人とあわせてリトアニア人と呼ばれるようになった。
【ポーランド化とモスクワ大公国の台頭】
1430年にヴィータウタスが死去すると、リトアニア大公国はポーランド王国と君主を共同で推戴する傾向が強まり、16世紀頃には実質的な同君連合となった。
貴族階級はポーランドの貴族階級と区別されずにまとめて「シュラフタ」と呼ばれポーランドとの文化的同質性を強め、彼らの母語までがポーランド化していくにつれて社会の上層と下層における言語教育の乖離がまず起こり、素朴なリトアニア語諸方言や東スラヴ諸語を母語とし続ける農民階級とは文化全体が乖離していく傾向を強めた。
また15世紀後半には東のモスクワ大公国の強大化により東部の国境地帯であるクレシ地方(「辺境地帯」の意味)を荒らされ、1503年には国土の3分の1を喪失するなど国力の衰退が顕在化し、ポーランドとの関係強化によって対抗する他なくなった。
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第2章 キエフ・ルーシ――ヨーロッパの大国 より
最初のウクライナ国家
ハーリチ・ヴォルイニ公国は、キエフ・ルーシ公国の南西部にあったハーリチ(ロシア語名ガーリチ、英語名ガリシア)公国とヴォルイニ公国がが合わさってできたもので、1240年のキエフ陥落後も1世紀近く存続した国である。この国は従来はほとんど顧みられることがなかったが、ウクライナにとってきわめて重要である。
本章冒頭に述べたようにウクライナはキエフ・ルーシ公国の直系と主張している。キエフ・ルーシ公国の滅亡後ウクライナの地には継ぐべき国がなかったとするロシア側の言い分に対抗する根拠となるのがこのハーリチ・ヴォルイニ公国である。ウクライナの史家トマシェフスキーは、ハーリチ・ヴォルイニ公国はその最盛期には現ウクライナの9割の人口が住む地域を支配しており、「最初のウクライナ国家」だとしている。
1199年ヴォロディーミル・モノマフの玄孫(曾孫の子)にあたるヴォルイニ公ロマン(在位1173~1205)がハーリチ、ヴォルイニ両公国を合併し、新王朝を開いた。同公は1200年キエフを占領したが、もはやキエフに魅力を感じず、ハーリチにとどまった。それでも同時代人は彼を「全ルーシの君主」と呼んだ。
息子のダニーロの治世(1238~64)は、モンゴルの来襲と重なり多難であった。ダニーロはキプチャク汗国の都サライまで出頭し、バトゥに臣従の礼を示さねばならなかった。
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ダニーロの死後は各国の干渉を招き、1340年代になって、ヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された。これは最初にオレフ(10世紀初めルーシを支配したヴァリャーグの公)がキエフを占領してから約450年、最後の男系レフ2世(在位1315~23)は始祖リューリクから数えて14世代目であった。こうして「最初のウクライナ国家」は消滅した。そしてハーリチ・ヴォルイニ公国の領域を継ぐ独立国は二度と現れることはなかった。
暗黒と空白の3世紀?
14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから17世紀半ばにコサック(ウクライナの草原で半農半牧生活を送る人びと)がウクライナの中心勢力になるまでの約300年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。この間はリトアニアとポーランドがウクライナを支配した。しかし、この期間はウクライナにとりまったくの暗黒時代で空白の3世紀であったろうか。
キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全域にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3民族に分化した。分化の1つの要因には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ大公国、ポーランド王国、リトアニア大公国と分割され、それが長期間固定されたことがある。キエフ・ルーシ公国の末期からすでに分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれ独立した言語になっていった。また「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じてもっともウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。その意味からすれば、この時期は、厳しい3世紀ではあったが、同時にウクライナのアイデンティティー形成のためにきわめて重要な時代であったともいえる。
リトアニアの拡張
リトアニア人はインド・ヨーロッパ語族に属するが、スラブでもゲルマンでもない孤立した民族である。彼らは先史時代からバルト海沿岸に住んでいた。キエフ・ルーシが正教に、ポーランドがカトリックに改宗した後も、昔ながらの独自の信仰を守っていた。
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リトアニアによるこの地域の征服はきわめてスムーズに行われ、貴族・民衆の双方にさしたる抵抗がなかった。ルーシの地の住民にとってモンゴル人は完全な異邦人であったが、リトアニア人にはさほど違和感はなかった。
ポーランドの進出
リトアニアの次にウクライナに蝕手を伸ばしたのはポーランドであった。ポーランドはスラヴ系で、ルーシにとってリトアニアよりも近い関係にあるが、10世紀頃から西方キリスト教(カトリック)を受け入れたため、東方キリスト教(正教)を受け入れたキエフ・ルーシとは文化的に異質となっていた。またリトアニアがルーシの文化を受け入れてルーシに融け込んでいったのに対し、ポーランドはルーシにおのれの文化を押しつけた。そのこともあり、ポーランドのウクライナ進出はスムーズに進まなかったが、結局ウクライナの地に後々まで長く居座り、ウクライナの歴史に決定的な影響を与えたのは、リトアニアよりもポーランドのほうであった。
モスクワ大公国とクリミア汗国の台頭
キエフが衰微している間にウクライナの北東ではモスクワ大公国(後に大公国)が諸公国のうちで強大になってきた。1480年モスクワ大公国はキプチャク汗国の支配から脱し、2世紀以上にわたる「タタールのくびき」が終った。第2のローマともいうべきビザンツ帝国のコンスタンティノーブルは1453年にオスマン・トルコによって滅ばされていたので、モスクワは我こそは「第3のローマ」であり、キリスト教世界の盟主となるというイデオロギーを作り出した。イワン3世(在位1462~1505)は「全ルーシの君主」と称し、かつてキエフ・ルーシ公国であった土地はすべて自分の土地であると主張した。そして15~16世紀にモスクワ大公国とリトアニア大公国はかつてのキエフ・ルーシの土地をめぐって長期にわたり争い、モスクワは少しずつリトアニアの領土を削り取っていった。こうしてリトアニアはチェルニヒフやスモレンスク、ポロック地方を失った。イワン4世(雷帝、在位1533~84)は、はじめて「ツァーリ」として戴冠した(1547年)。