じじぃの「歴史・思想_567_物語ウクライナの歴史・350年間待った独立」

ロシア軍 “首都キエフに侵入” 今後の展開は?【ABEMA記者解説】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0zInh23y5Kg

ロシアがウクライナに侵攻 (2022年2月24日)

第1次大戦から現代まで…ウクライナで繰り返される対ロシア「独立闘争」

2022.3.23 Yahoo!ニュース
独立国家共同体
ソ連の工業と農業を支え続けたウクライナは、工場が排出する汚染物質によって健康被害などの公害問題を抱えました。そして1986年には、チェルノブイリ原子力発電所における大惨事が起こります(写真⑦)。これにより、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカ(立て直し)の推進に拍車がかかりました。
ソ連経済が混乱する中、1991年8月24日、ウクライナの最高会議は独立宣言を採択します。これが現在ウクライナ独立記念日とされる日です。そして同年12月、ウクライナなどがロシアのエリツィン大統領らと独立国家共同体の結成を宣言したことにより、ソ連は解体しました。
プーチンの“執念”
その後のウクライナは親ロ派と親西欧派とが政治的に対立を続け、2008年にウクライナNATO加盟が議題にのぼると、ロシアのプーチン大統領は強く反発しました。
14年には親ロ派政権に反発する民衆デモの最中、ウクライナで親西欧派の政権が復活します。これに危機感を覚えたプーチンによって強行されたのが、クリミア半島への侵略と併合宣言でした。ロシアはG8から追放され、翌15年に停戦と和解を約束したミンスク合意が成立します。
しかし19年に親西欧派のゼレンスキーがウクライナ大統領選で圧勝し、ロシアとの対立が先鋭化します。そして結果的に、今年2月のロシアによるウクライナ侵略へとつながってしまうのです。そこには、ロシアの「生存権」を確保するというプーチンの「執念」のようなものを感じますが、ウクライナへの視点はひとかけらもありません。
最後に、ウクライナの国民的詩人であるシェフチェンコの詩を紹介しておきましょう(資料⑧)。私たちはウクライナの良き隣人として、「やさしいことば」をかけることができるでしょうか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d3e3d528c7697167193142bdc72db362cdd5730?page=3

『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第7章 ソ連の時代 より

戦後処理

1945年5月ドイツ軍が降伏してヨーロッパにおける第二次世界大戦終結した。ウクライナの人口の約6分の1にあたる530万人が死亡した。230万人がドイツでの強制労働を強いられた。ソ連軍の中にはウクライナ人200万人が含まれていたし、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれており、同一民族に互いに敵味方になって戦ったことは前大戦と同じであった。経済的な被害も甚大であった。独ソ両軍が取ったり取られたりする間、退却する側はいずれも焦土作戦をとって都市や工場を破壊していった。キエフの中心部の85%が破壊され、ハルキフは70%が破壊された。前述の『ウクライナについての全て』では、ウクライナはこの大戦で全ソ連の物質的損害の40%をこうむり、これはロシア、ドイツ、フランス、ポーランドそれぞれの物質的損害より大きいとしている。
多くの民族主義者の自己犠牲的活動があったにもかかわらず、今回も独立は実現しなかった。しかし膨大な人命と財産の損失の代償としてウクライナの領域は拡大した。ポーランドか東ハーリチナ、ルーマニアから北ブコヴィナと南ベッサラビアハンガリーからザカルパチアを獲得した。とくにザカルパチアは、ロシア帝国ソ連を通じてはじめて支配下に入った。これによりウクライナは16.5万平方キロメートルの領土と1100万人の人口を新たに獲得して、58万平方キロメートル、4100万人擁するソヴィエト共和国となった。
皮肉なことに、独立はならなかったが、大戦前それぞれ4ヵ国の支配下にあったウクライナ人居住地域はほとんどソ連の下のウクライナ共和国にまとめられた。そしてこれはキエフ・ルーシの崩壊以来史上はじめてのことであった。

第8章 350年間待った独立 より

ゴルバチョフ下でのグラスノスチ

1985年ソ連共産党の書記長に就任したゴルバチョフ(1931~)は、、抜本的な改革を行えば、共産党の支配するソ連というシステムは存続しうると信じていた。そしてグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再建)を両輪とする政策を開始した。しかしともに進むべきはずであった2つの政策はグラスノスチのみが先行し、ペレストロイカ既得権益の抵抗にあって遅々として進まなかった。グラスノスチは、ゴルバチョフの意図に反して、国民の働くインセンティブには向かわず、むしろ批判するインセンティブとなり、何よりも危険なことに民族主義に火をつけた。スターリンフルシチョフ、ブレジネフら歴代の指導者は最新の注意をもって各地の民主主義をコントロールし、それによって帝国としてのソ連の維持してきたが、グラスノスチにより民族主義抑圧のたがが外れ、ソ連の解体を招くことになった。
ウクライナソ連体制に対する不信が最初に高まったのは、チェルノブイリウクライナ語チョルノビリ)原子力発電所の爆発事故によってであった。1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。

独立達成

1990年3月ウクライナ・ソヴィエト共和国共和国の議会である「最高会議」(ヴェルホヴナ・ラーダ)の選挙が行われた。これまでにルーフは急進化し、ウクライナの独立を主張するようになっていた。選挙では、依然として共産党議席のほぼ3分の2を占めたが、親ルーフの候補者は種々の選挙妨害にもかかわらず約4分の1の議席を獲得した。この選挙ではじめて反対党が現れたのである。選挙では、反体制運動家であったルキアネンコ、チョルノヴィル、ホリンらが当選した。この頃には共産党の権威が落ち、10万単位で党員が離脱するようになった。ウクライナの政治は、すべてを牛耳ってきた共産党に代わり、これまで飾りものにすぎなかった最高会議が引っ張っていくことになる。
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ソ連では離散傾向にある各共和国を何とか連邦の枠内にとどめようとゴルバチョフが必死の努力を試みていた。しかし同年3月リトアニアは独立してソ連から離脱するとの宣言を発し、ソ連の解体傾向に弾みをつけることになった。それでもゴルバチョフ大統領(1990年3月以来大統領)は1990年11月新しい連邦条約の草案を発表し翌1991年3月その賛否を問う国民投票を全ソ連で行った。ウクライナでは、ゴルバチョフ提案の連邦維持に70%が賛成したが、他方ウクライナのみで用意された「主権国家ウクライナ主権国家連邦に加わるとの前年最高会議の決議に賛成か」との質問には80%が賛成した。
独立達成を決定的にしたのはクーデター事件であった。1991年8月19日、モスクワの保守派は非常事態を宣言し、クリミアのフォロスの大統領別荘で休暇をとっていたゴルバチョフを拘禁して権力委譲を迫った。同日クーデター側はキエフに使者を送り、クラフチュークにクーデター支持を要請した。彼は非常事態はウクライナでは適用されないと答えたが、クーデターには支持も不支持も表明しなかった。クーデターはロシア最高会議議長エリツィン(1931~、2007年に死亡)の勇敢な抵抗であっけなく失敗した。主導権はゴルバチョフからエリツィンに移った。そして誰の目にもソ連はもたないことが明らかとなった。

クーデター失敗の勢いもあり、8月24日ウクライナ最高会議はほとんど全会一致で独立宣言を採択した。後にこの日は独立記念日となる。国名は単純に「ウクライナ」となった。また最高会議は共産党をクーデターに加担した廉で禁止した。クラフチュークは共産党を離党した。9月には最高会議は民族主義の伝統にもとづく国旗、国歌、国章を法制化した。国旗は上が大空を表す青、下が大地(麦畑)を表す黄の2色旗、国歌は1865年ヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」、国章はヴォロディーミル聖公の国章であった「三叉の鉾」である。いずれも中央ラーダ政府が制定したものの復活であった。またソ連を構成していた多くの共和国がウクライナにならって独立宣言をした。

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やっとのことで手に入れた独立は、流血をともなわず、平和裏に行なわれたものであった。このことはまことに喜ばしいが、他方、「棚ぼた」的なところもあった。ウクライナソ連に残っていればソ連が存続しえたかもしれないという意味からすれば、最後の段階でソ連にとどめを刺す決定的な役割を果たしたといえる。しかし全体的に見れば、ソ連が自ら崩壊していくとともに便乗した面が強い。したがってレーニンやピウスツキ、マサリクのような建国の英雄も生まれなかったし、フルシェフスキーやペトリューラのような独立運動を象徴するような人物もいない。また旧体制の中枢にいた者たちが独立派にやすやすと転向したため、旧体制がそのまま独立国家に移行し、看板だけ替わって中身はほとんど変わらない状態となった。これが、何世紀にもわたってウクライナ民族の夢であった独立がやっと達成されたにもかかわらず、「目出度さも中くらい」な独立になった理由であろうかと思われる。