じじぃの「歴史・思想_559_物語ウクライナの歴史・キエフ・ルーシ公国・ヤロスラフ賢公」

1分世界遺産 401 キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院 ウクライナ

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=g463ViCtpao

聖ソフィア大聖堂 (キエフ)


原初年代記

ウィキペディアWikipedia) より
原初年代記は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記(レートピシ)である。
初版は1113年に編纂された。過ぎし年月の物語とも。
年代記の前半部は、
・ヴァリャーグ人3兄弟の到着
キエフの創立
・アスコルドとジールの謀殺
・愛馬の頭骨からでた蛇に噛まれて死んだオレグ
・オレグの後継者であるイーゴリの妻オリガによって行われた夫を暗殺したデレヴリャーネ族への復讐
スラヴ人の中で伝教を務めた聖人キュリロスとメトディオスの仕事の説明
キエフキリスト教化したウラジーミル聖公の雷神ペルーンおよびその他の偶像神信仰への抑圧
など逸話的な話に富んでいる。
原初年代記は歴史上最も徹底的に研究された文書の一つかもしれない。多数のモノグラフが書かれ、いくども刊行された。その最初は1767年に遡る。1908年にはアレクセイ・シャフマトフが年代記に対する先駆的なテストロジカルな研究を出版した。その後ドミトリー・リハチョフやその他のソ連の史学者はそれを部分的に修正した。彼らはネストル以前の11世紀中期、ヤロスラフ賢公時に宮廷で編纂された年代記を復元しようと試みた。

聖ソフィア大聖堂 (キエフ)

ウィキペディアWikipedia) より
聖ソフィア大聖堂はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。
ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。10世紀~13世紀、15世紀~18世紀の間、キエフ府主教の主教座大聖堂であった。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。
1990年に「キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院」の一部として世界遺産リストに登録された。

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『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第2章 キエフ・ルーシ――ヨーロッパの大国 より

キエフ・ルーシは誰のものか

本来はキエフ・ルーシ王国といったほうが実態から見て公平であると思われ、現にウクライナ民族主義的色彩の濃い史書には王国と称するものもあるが、本書では慣例に従いキエフ・ルーシ公国(ないし大公国)と呼ぶことにする。
また「キエフ・ルーシ」という呼び方についても、当時は単に「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、本書でも本当は「ルーシ(大)公国」と呼びたいところである。ところがその後ルーシより派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として使われるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後世になって「キエフを都とするルーシ」という意味でキエフ・ルーシと呼ぶことが慣例となった。したがって残念ではあるが本書もこの慣例に従う。
さて、このキエフ・ルーシ公国はこれまでロシア(ソ連)史の文脈の中でとられられてきた。ロシア(ソ連)は大国であり、ウクライナは独立さえしていなかったから、それはある意味でやむをえなかった。しかしウクライナがロシアとは別個の国として独立してみると、あらためてキエフ・ルーシは誰のものかという問題が生じてくる。すなわちそれは、ロシアかウクライナかどちらの歴史に属するものか、キエフ・ルーシ公国の直系の後継者はロシアかウクライナかという問題である。
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いずれに分があるかはさておき、それではキエフ・ルーシ公国はどのような国であったか見ていくことにしよう。

ヴォロディーミル聖公とヤロスラフ賢公

キエフ・ルーシ公国の継承の方式は、キエフの公(大公)が息子たちを地方の公(知事)として各地に配し、大公が死ぬとその長男ではなく大公の次の弟が継ぐという兄弟相続が原則であった。しかし同時に父子相続も行われており、この継承方式の中途半端な代替わりごとに兄弟間、親族間の争いを呼び、結局これがキエフ・ルーシ公国の混乱と衰退を招く大きな原因となる。
そしてスヴャトスラフ征服公の死後、この最初の兄弟間の争いが起こった。征服公には3人の男子があり、長男ヤロボルクはキエフ公を継ぎ、次男オレフはドレヴリャーネ公に、三男ヴォロディーミル(ロシア語名ウラジーミル)はノヴゴロド公となった。長兄ヤロボルクが次兄オレフを殺したことに身の危険を感じたヴォロディーミルはスカンディナヴィアに逃げ、ヴァリャーグ人の援軍を得、その力をもってヤロポルクを倒し、キエフ公としてルーシ全体を支配した(在位978~1015)。なおキエフの公でキエフ・ルーシ国全体の長となる者は、他の地方の公と区別する意味で11世紀からキエフ大公と呼ばれるようになっていったので、本書ではこれからはキエフ大公と表記していくこととしたい。
ヴォロディーミルは各地を征服し、バルト海黒海アゾフ海ヴォルガ川、カンパチア山脈に広がる当時ヨーロッパ最大の版図をもつ国を作り上げた。こうした実績からヴォロディーミルは、「大ヴォロディーミル」とも、後述のようにキリスト教を国教にしたことから「聖公」とも呼ばれるようになった。
ヴォロディーミルの死後、再び兄弟間の争いが起こった。息子の1人でノヴゴロド公であったヤロスラフは、父と同じようにヴァリャーグ人の援軍を得て南進し、キエフ大公となった(在位1019~54)。ヤロスラフは、遊牧民ペチェネグ人を撃退するなどの軍事的な成果もあげたが、彼の真骨頂は内政および外交の面であった。
内政面では、ヤロスラフは慣習法を「ルスカ・プラウダ」(ルーシの法)として法典化した。彼は既存の法の収録だけでなく改正も行った。復讐による殺人を禁じ、死刑を廃止して罰金に変えたことがその例である。教育にも熱心で、書物を愛し、彼が建てたソフィア聖堂(1037年)に図書館を設け、キリスト教聖典などの翻訳を行った。これらのことから彼は「賢公」といわれている。彼はまたキエフの街の整備にも務め、城壁を強化し、街の門を立派にした。その門のうち黄金の門のみが旧市街に残っている。19世紀のロシアの作曲家ムソルグスキー(1839~81)は、ある展示会で見た複数の絵の印象を組曲展覧会の絵』(1874年)として作曲しているが、この黄金の門を描いた絵にもとづく曲もその中に入っている。

キリスト教への改宗

ヴォロディーミル聖公とヤロスラフ賢公の黄金期にキエフ・ルーシ公国はキリスト教化し、後世に大きな影響を与えることとなった。クリミア半島南部のケルソネソスは古代以来ローマ帝国ビザンツ帝国の領土であり、そこにはキリスト教が根づいていた。また同じクリミア半島には東ゴート人の末裔が数世紀にわたり住んでおり、彼らもキリスト教に改宗していたのでキリスト教の長い伝統があった。そして前述のようにヴォロディーミルの祖母のオリハがすでに改宗しており、キエフ・ルーシ公国内でキリスト教はかなり広まっていた。このように土壌がすでにあった上に、国家の規模が大きくなり、それを治める大公の統治を正当化し、国の凝集力を高めるためにも宗教の助けが必要になってきたのである。とくに一神教の絶対性は君主の絶対性を正当化するのに都合がよかった。
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以上が『原初年代記』の伝えるところである。