キエフ公国/キエフ=ルーシ
世界史用語解説 より
●キエフ公国の建国
9世紀末、ノルマン人の大移動の動きの一つとして、ヴァイキング(またはヴァリャーグ人。彼らは自らをルーシと称した)を率いたリューリクはノヴゴロド国を建国した。
その一族のオレーグは、ビザンツ帝国との交易の利益などを目指して南下し、882年、ドニェプル川中流のキエフを占領、都をノヴゴロドから移した。オレーグはさらに南下してビザンツ帝国を脅かした。これが実質的なキエフ公国(キエフ=ルーシ)の成立であるが、オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが大公として治めることになり、正式に公国となった。その過程でルーシは東スラヴ人に同化していった。またこの間のことをロシア史では「キエフ=ルーシ」といっている。ロシアといってもほぼ現在のウクライナにあたる。
●ウラディミル1世のギリシア正教改宗
988年、キエフ大公ウラディミル1世は、コンスタンティノープルに軍隊を南下させてビザンツ帝国に脅威を与えた。
しかし、彼は兵を引いて自らギリシア正教に改宗し、公認の宗教として取り入れ、ビザンツ文化を受容、「ビザンツ化」を推進した。
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NEWSドリル プーチン大統領の盟友 ウクライナ侵攻支持するキリル総主教
ウクライナ侵攻を続けるロシア。
プーチン大統領の盟友と呼ばれ国内で強い影響力を持つロシア正教会・キリル総主教がこの侵攻を後押ししている。
2人は精神的盟友とも言われている。
ルースキー・ミールが、キーワードとなる。
歴史的にロシア語や、ロシア正教会の影響下に置かれていた地域は、ロシアと一体であるという価値観である。この考え方が、ウクライナ侵攻に影響を与えている。
プーチン大統領は、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、同じ国の子孫であり、1つの言語、1つの政党な信仰で結びついているという。総主教は、ロシアとウクライナは1つの民族だと述べている。
ロシア正教会の成り立ちも関係している。998年にはキエフ公国があった。ウラジミール1世が、東方正教会を国教と定めた。現在の首都であるキーウ(キエフ)に本拠が置かれた。モンゴル帝国が侵攻してきてキエフ公国が崩壊した。キエフ正教会は、拠点をモスクワに移動した。これがロシア正教会になる。
ルースキー・ミールという言葉は11世紀からあった。近代の民族主義がさかんになったときに、ウクライナやロシアをまとめて呼ぶときに使われだした。ロシア人、ロシア正教にとって、キーウ、クリミアは2大聖地になる。ルースキー・ミールという考え方は2000年になってから、広がった。同じ国では、同じ文化、文明がひとつでなくてはいけないという考えとのこと。
今回のウクライナ侵攻について、東方正教会の内部からも批判の声が上がっている。
ジョージアにあるイリア国立大学の教授は「いくつかの正教会はロシア正教会の総主教の戦争に対する態度に激怒しており、世界各地の正教会で混乱が生じている」と指摘。
ウクライナ侵攻後、オランダの聖ニコラス正教会では司祭が礼拝の際にロシア正教会の総主教を祝福する言葉を入れることをやめたという。さらにロシア正教会内部からも批判の声が上がっているという。
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/
第2章 キエフ・ルーシ――ヨーロッパの大国 より
キエフ・ルーシは誰のものか
本来はキエフ・ルーシ王国といったほうが実態から見て公平であると思われ、現にウクライナの民族主義的色彩の濃い史書には王国と称するものもあるが、本書では慣例に従いキエフ・ルーシ公国(ないし大公国)と呼ぶことにする。
また「キエフ・ルーシ」という呼び方についても、当時は単に「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、本書でも本当は「ルーシ(大)公国」と呼びたいところである。ところがその後ルーシより派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として使われるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後世になって「キエフを都とするルーシ」という意味でキエフ・ルーシと呼ぶことが慣例となった。したがって残念ではあるが本書もこの慣例に従う。
さて、このキエフ・ルーシ公国はこれまでロシア(ソ連)史の文脈の中でとられられてきた。ロシア(ソ連)は大国であり、ウクライナは独立さえしていなかったから、それはある意味でやむをえなかった。しかしウクライナがロシアとは別個の国として独立してみると、あらためてキエフ・ルーシは誰のものかという問題が生じてくる。すなわちそれは、ロシアかウクライナかどちらの歴史に属するものか、キエフ・ルーシ公国の直系の後継者はロシアかウクライナかという問題である。
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いずれに分があるかはさておき、それではキエフ・ルーシ公国はどのような国であったか見ていくことにしよう。