じじぃの「歴史・思想_566_物語ウクライナの歴史・ソ連の時代」

ソ連崩壊30年、トラウマと欧米への意趣返し 中国の強気への呼び水

2021年12月22日 朝日新聞デジタル
現在のロシアと周辺国はかつてソビエト社会主義共和国連邦ソ連)として東西冷戦の一方の極にあり、米国とにらみ合っていたが、ちょうど30年前に崩壊した。
ソ連とは何だったのか。それは今のロシアをどう規定しているのか。内外の識者に尋ねた。
https://www.asahi.com/articles/ASPDP3RXBPDGUPQJ00B.html

『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第6章 中央ラーダ――つかぬ間の独立 より

ボリシェビィキの登場

一方でロシアにボリシェビィキ政権が樹立され、他方でウクライナ民族主義的な中央ラーダ政府が成立すると、必然的に両者の対立が生じてくる。ボリシェビィキ政府は、ウクライナは、ウクライナは当然ロシアの枠内に入るべきものとし、したがって中央ラーダのナショナリズム反革命ブルジョア・分離主義者とみなした。穀物、砂糖、石炭、金属などの産業でウクライナはロシアにとって不可欠な存在であり、ウクライナをロシアから分離することなどは、ロシア人であれば王政派であろうと共産主義者であろうと考えられないことであった。ボリシェビィキは当初ソヴィエト勢力を中央ラーダに入り込ませて内部から乗っ取ろうとしたが、ウクライナにおけるボリシェビィキの勢力は1917年12月の時点では全体の1割程度であり、議会を通じて権力を握ることには失敗した。そこでボリシェビィキは武力を使ってでも単独でウクライナを手中に収める方針に切り替えた。そのためハルキフに「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立して受け皿とした。

第7章 ソ連の時代 より

4ヵ国に分かれたウクライナ

第一次世界大戦、革命、内戦と激動の7年間を経て、ウクライナはどう変わったか。大戦前には大部分がロシア帝国に、残りの小部分がオーストリア・ハンガリー帝国支配下にあったが、新しい体制下では、ウクライナソ連ポーランドルーマニアチェコ・スロヴァキアの4ヵ国に分割統治されることになった。
    ・
ソ連の中におけるウクライナの位置づけは次のようになった。すでに見たように、早くもボリシェビィキは、中央ラーダに対抗して1917年12月ハルキフで「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を成立させていた。このウクライナ・ソヴィエト共和国は、ウクライナにおけるボリシェビィキの勢力の消長とともに消えたり、また復活したりした。同共和国は、形式上ロシア・ソヴィエト共和国とは独立した存在であった。

スターリンの粛清

スターリンの権力掌握でウクライナ自治に制限が始まり、ウクライナ人が農業集団化、穀物調達に抵抗したことでその流れは一層強まった。1920年代に活躍したインテリ・文化人に対する攻撃が始まった。1931年にはフルシェフスキーのアカデミー歴史部門も閉鎖された。彼はロシアに追放され、1934年カフカスで寂しく死んだ。
1932年頃からは共産党員に対する粛清が始まった。ソ連全体の大粛清は1936~38年に起きたのであるから、ウクライナに限ってはその数年前から始まっていたことになる。これは集団化、穀物調達に対するウクライナの抵抗の強さを見て狙い撃ちされたのであろう。
またスターリンは1933年の飢饉の責任をウクライナ共産党員になすりつけた。彼はウクライナ共産党に対する公然たる批判を許した。1933年には教育のウクライナ化を促進した古参ボリシェビィキでウクライナ共和党の教育コミサール(閣僚)であったスクリプニク(1872~1933)が自殺に追い込まれた。その他ウクライナ化を推進した有力な党員たちが自殺し、流刑となり、あるいはいずこともなく消えた。1933~34年にウクライナ共産党は10万人の党員を失ったという。
    ・
1930年代前半の粛清の対象は主にウクライナ人だったが、1936~38年になると粛清の対象はウクライナ人を含む全ソ連人に及んだ。ウクライナ政府の17人の閣僚が逮捕されたあと処刑された。リュプチェンコ首相(1897~1937)は自殺した。ウクライナ共産党の37%にあたる17万人が粛清された。こうしてウクライナ共産党は壊滅状態になった。1930年末には各共和国の自治はほとんどまったく死滅していた。スターリンは彼の子分を送って各共和国を治めた。ウクライナには1939年スターリンお気に入りのフルシチョフウクライナ共産党第一書記として送られてきた。
ソ連全体の教育、文化は一律化、ロシア化された。ウクライナでもロシア語の教育が必須となった。ウクライナ後のアルファベット、語彙、文法がロシア語に近づけられた。ウクライナ人もプーシキントルストイドストエフスキーなどのロシア語作家の文字を読むよう奨励された。新聞・雑誌においてもウクライナ語が減った。こうして1920年代にかくも花咲いたウクライナ文化はこの時代にすっかり死に絶えた。

戦後処理

1945年5月ドイツ軍が降伏してヨーロッパにおける第二次世界大戦終結した。ウクライナの人口の約6分の1にあたる530万人が死亡した。230万人がドイツでの強制労働を強いられた。ソ連軍の中にはウクライナ人200万人が含まれていたし、ドイツ軍の中にも30万人のウクライナ人が含まれており、同一民族に互いに敵味方になって戦ったことは前大戦と同じであった。経済的な被害も甚大であった。独ソ両軍が取ったり取られたりする間、退却する側はいずれも焦土作戦をとって都市や工場を破壊していった。キエフの中心部の85%が破壊され、ハルキフは70%が破壊された。前述の『ウクライナについての全て』では、ウクライナはこの大戦で全ソ連の物質的損害の40%をこうむり、これはロシア、ドイツ、フランス、ポーランドそれぞれの物質的損害より大きいとしている。

多くの民族主義者の自己犠牲的活動があったにもかかわらず、今回も独立は実現しなかった。しかし膨大な人命と財産の損失の代償としてウクライナの領域は拡大した。ポーランドか東ハーリチナ、ルーマニアから北ブコヴィナと南ベッサラビアハンガリーからザカルパチアを獲得した。とくにザカルパチアは、ロシア帝国ソ連を通じてはじめて支配下に入った。これによりウクライナは16.5万平方キロメートルの領土と1100万人の人口を新たに獲得して、58万平方キロメートル、4100万人を擁するソヴィエト共和国となった。

皮肉なことに、独立はならなかったが、大戦前それぞれ4ヵ国の支配下にあったウクライナ人居住地域はほとんどソ連の下のウクライナ共和国にまとめられた。そしてこれはキエフ・ルーシの崩壊以来史上はじめてのことであった。