じじぃの「歴史・思想_562_物語ウクライナの歴史・ユダヤ人の楽園」

The Massacre of the Jews of Poland | The Jewish Story | Unpacked

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KK_T1ixYRH0

Poland, the Paradise of the Jews!

Phase 3: Poland, the Paradise of the Jews! (1264 - 1772)

Apr 6, 2020 JJ Travel in Israel
As the Jews began moving out of Spain to many countries in western Europe, the more fortunate ones discovered Poland and Lithuania and enjoyed a tolerance unknown by the Jews in other parts of medieval Europe. In 1264, Boleslaw the Pious (the Duke of Greater Poland) issued the Statute of Kalisz, thereby allowing Jews to:
https://www.jjtravelinisrael.com/phase-3-poland-the-paradise-of-the-jews-1264-1772/

第3章 リトアニアポーランドの時代 より

暗黒と空白の3世紀?

14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国(ルーシのハールィチ公国とヴォルィーニ公国という2つの公国の合併によって誕生した公国)が滅亡してから17世紀半ばにコサック(ウクライナの草原で半農半牧生活を送る人びと)がウクライナの中心勢力になるまでの約300年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。この間はリトアニアポーランドウクライナを支配した。しかし、この期間はウクライナにとりまったくの暗黒時代で空白の3世紀であったろうか。
キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全域にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナベラルーシの3民族に分化した。分化の1つの要因には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ大公国ポーランド王国リトアニア大公国と分割され、それが長期間固定されたことがある。キエフ・ルーシ公国の末期からすでに分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれ独立した言語になっていった。また「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じてもっともウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。その意味からすれば、この時期は、厳しい3世紀ではあったが、同時にウクライナアイデンティティー形成のためにきわめて重要な時代であったともいえる。

ユダヤの楽園」

ウクライナの地には古代からユダヤ人が住んでいた。またハザール可汗国ではユダヤ教が一時国教になったこともあり、当時のキエフにいたユダヤ商人たちの記録も残っている。キエフ・ルーシ時代には、ユダヤ人はキエフの町で塩の専売を手中にして、「ユダヤ人の門」なるものもあった。しかし全体としてユダヤ人の数は多くなかった。ウクライナユダヤ人が増えるようになったのは、ポーランドリトアニア時代になってからである。
1264年、ポーランドのボレスワフ敬虔王(在位1243~79)はユダヤ人を保護する法令(カリシュの規約)を出した。そこでは、ユダヤ人は連帯責任をもって諸侯に税金を支払わねばならないが、諸侯はユダヤ人に保護を約束し、自由な経済活動を保証した。さらにユダヤ人に自治を行う教区を設置する権利も認めた。またユダヤ人へのいかなる攻撃も厳しく罰した。14世紀のカジミエン3世(大王)は、このボレスワフ王のユダヤ人保護政策を一層拡大した。王はユダヤ人が都市や農村で土地と家屋を取得するのを容易にした。そのため王には「農奴ユダヤ人の王」というニックネームがついたほどであった。カジミエシ大王はじめポーランドの王たちはモンゴル侵入後のポーランドを立て直すため外国人のポーランドへの移民を歓迎したので、ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人などが主に都市に流入した。なかでもユダヤ人は、13~15世紀に神聖ローマ帝国内で対ユダヤ人迫害が強まったため、ポーランドでの優遇策に惹かれて多数が移住してきた。リトアニアでは14世紀末ヴィタウタス大公が同様に寛大なユダヤ人優遇策を打ち出した。その結果リトアニア支配下ウクライナへもドイツ・ポーランドユダヤ人が移住してきた。
ユダヤ人はまず都市の商人、手工業者になった。次に農村にも進出した。彼らは金銭感覚に優れ、事務能力が高かったため、農村では貴族の管理人となった。荘園の経営全体を請け負った者もいた。管理人となったユダヤ人は農村を支配し、また彼らに金を貸した。さらに領主の下で旅籠(はたご)、居酒屋、粉引き場、製材所などを経営した。このようにユダヤ人は、領主と農民の中間にたち、農民の労働の成果を領主のポケットに運ぶパイプの役を果たした。ただしこのことによってユダヤ人は農民から領主の手先とみなされるようになり、後にこの地域でユダヤ人の大量殺害が起こる遠因もここにあった。
ユダヤ人が保護されていたといってもキリスト教会はユダヤ人に敵対的であったし、キリスト教徒商人はユダヤ人を排除しようと試みた。しかし、王と貴族はユダヤ人から利益を得ていたのでかかる試みは概して成功しなかった。こうして当時のポーランドリトアニアの領域では他のヨーロッパ諸国に比しユダヤ人に住みよい環境が形成された。そこで「ポーランドは農民の地獄、町人の煉獄(れんごく)、貴族の天国、ユダヤ人の楽園」なるおとわざが生まれた。
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こうして1500年頃には約1万8000人のユダヤ人がポーランドに、6000人がリトアニアに生活していたといわれ、それは全人口の1%弱であったと推定されるが、1648年頃には全体でおよそ50万人、人口比で5%に達した。
ウクライナでは、とくに1569年のルブリン合同でポーランドは新たな領地を獲得したため大貴族(マグナート)たちは新開地の荘園化に乗り出した。そのためにはユダヤ人が荘園の管理人として必要になり、ユダヤ人の東方への大量移住が始まった。その結果ウクライナでは17世紀前半の50年の間にユダヤ人の人口は4万5000人から15万人に増えた。
以上ユダヤ人のポーランドウクライナへの移住についてやや詳しく述べたが、それは、このときの移住が後世に大きな影響を与えたからである。すなわち、19世紀および20世紀のロシア帝国ソ連においてユダヤ人が政治・経済・文化の面で華々しい活躍をするが、大部分がこのときポーランドに入ってきたユダヤ人の子孫なのである。モスクワ大公国ロシア帝国では、時代により多少の変化はあるが、全般的にユダヤ人の国内居住を禁じていたので、居住していたとしても少数だった。

他方ポーランドリトアニアウクライナベラルーシを領有することによってユダヤ人がその地に広がったが、18世紀末のポーランド分割によりロシアはベラルーシと大部分のウクライナを獲得することになり、その地に住む多くのユダヤ人を抱え込むことになったのである。

これらユダヤ人は原則として定住区域として設定されたウクライナベラルーシを出ることが許されなかったので、ロシア帝国内のユダヤ人が主たる居住地になった。ユダヤ人であるトロッキージノヴィエフ、カガノヴィッチ、シャガール、エレンブルグらがいずれもこの両地域の生まれなのはそのような理由による。また現在アメリカには多くのユダヤ人が住んでいるが、そのうちのかなりの部分が旧ロシア帝国ソ連からの移住者の子孫である。