【前編】ウクライナとロシアの宗教戦争:キエフと手を結んだ権威コンスタンティノープルの逆襲
2022/3/23 Yahoo!ニュース
「ロシアがウクライナで行っている戦争は、宗教的なものでもあります」。
歴史家のアントワーヌ・アルジャコフスキー氏は分析する。
2018年12月、キリスト教の正教会に、大激震となる出来事が起きた。
ウクライナの首都キエフ(キーウ)で開催された協議会によって、ウクライナ正教会の独立が決まったのである。
それまでウクライナ正教会は、ロシア正教会に属していた。330年以上も。それを、正教会の中で最も象徴的な権威をもつコンスタンティノープル正教会が、独立を認めたのだった。
ウクライナの信者をモスクワ総主教の直接の監督下に置くという勅令がくだされたのは、1686年のことだ。それを「撤回」したのだった。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9cb3f1e7f5ce6e199f1cafbb4faaa384e77d38f4
『失われた世界史 封印された53の謎』
歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行
ロシア正教会の謎――ロシア建国の宗教戦略とその裏側 より
部族連合から国家建設へと進みゆくロシア。さらなる成長を遂げるに伝統信仰を捨てて、体系だった宗教を受け入れる必要が生じた。決めかねた勧誘に訪れる使者の説明だけでは判断ができず、大公ウラジーミルは信頼の置ける家臣たちを各地に遣わし、五感をもって体験したことを包み隠さず報告するよう命じたのだった。
国教を選ぶために視察団を派遣
ロシアでは11世紀頃から、修道士たちの手により、年代記という編年体の歴史書が編まれ始めた。歴史書と言いながら、本邦の『古事記』と同じく、伝説や叙事詩が渾然一体と化したものだが。
現存する最古の年代記は12世紀初頭に成立したものと見られる『原初年代記』で、編者のなかで、唯一、名の伝わるネストルという修道士の名をとって『ネスロルの年代記』、あるいは表題の一部をとり『過ぎし歳月の物語』とも呼ばれている。
上記の書によれば、ロシアの地にキリスト教を伝えたのはイエスの12弟子のひとり、アンデレであるという。さらにはエジプトの神学者オリゲネスがアンデレがスキュティア(黒海の北方地域)で布教を行ったと記録しており、仮にそれらが史実だとしても、彼らの撒いた種は根づかずに終わったようだ。
個人レベルならいざ知らず、ロシアで公式にキリスト教が受け入れられたのは10世紀の末、キエフ大公ウラジーミルのときで、上記の年代記によれば、その経緯は以下のごとくだった。
ウラジーミルの地世下、ロシアが成長を遂げてくると、周辺諸国からやってくる使者も増加し、なかには新しい宗教の受容を勧める者もあった。ブルガール人は「イスラム教」、ドイツ人は「カトリック」、ハザール人は「ユダヤ教」、ギリシャ人は「東方正教会」といった具合である。ウラジーミルは使者の説明だけでは決めることができず、信頼の置ける家臣10人を選び出し、ユダヤ教を除く3つの宗教・宗派について実地調査を行わせることにした。ユダヤ教を除外したのは、亡国の宗教と認識していたからだった。
イスラム教については、ウラジーミルは使者の説明を聞いた時点からあまり良い印象を抱けなかった。ブタ肉食や飲酒の禁止、さらには割礼の義務付けなど、生活の細部にいたるまでさまざまな制約が及んでいる点が馴染めなかったのである。
調査から戻った家臣から、モスクの内部が雑然とした雰囲気で悪臭もひどいと聞くや、ウラジーミルはまじイスラム教を選択肢から外した。
カトリックにういても、ドイツ人の使者がロシア人の伝統信仰に対して非難がましい言葉を並べ立てたことから、あまり良い印象を抱いてはおらず、戻ってきた家臣から、カトリックの教会建築と祈祷には何の美しさもないとの報告を受けるや、これも選択肢から外した。
残るは東方正教会だが、ビザンツ帝国の都を訪れた家臣は美しく広々とした教会堂に案内され、そこで荘厳な儀式を実見する機会を得るのだが、彼らはそれにすっかり魅了されてしまった。
「われわれは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはあれほどの美しさはないので、何かに譬えることもできません。あそこでは神が人とともにおられ、東方正教会の儀礼がすべて優っていることは間違いありません」
家臣たちの帰朝報告を聞いただけでも、彼らがいかに大きな衝撃を受けたかが感じられる。彼らの驚きや感動がウラジーミルにも伝わったか。彼はビザンツ帝国から東方正教会を受け入れ、国教とすることを決めたのだった。
かくしてウラジーミルは洗礼を受け、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚する。改宗が政治的な動機ではなく、心からのものであることを示そうと、ウラジーミルはそれまで連れ添っていた5人の正妻および800人の側室と離婚したうえ、それまで崇めてきた雷神ベルーンの像を川へ投げ捨てた。さらにはキエフの全住民をドニエブル川の湖畔に集めて集団洗礼を行わせるなど、派手なパフォーマンスを演じたのだった。
ウラジーミルの洗礼に関し、年代記の内容をどこまで信じてよいのか、正直なところわからない。年代記の編者は東方正教会の修道士だから、自分たちの宗派を持ち上げ、他の宗派や宗教を 貶めた可能性は十分にありえる。とはいえ、家臣たちの報告として語られる内容は、伝統信仰以外は縁のなかったロシア人に目に他の宗教がどのように映ったかが如実に示されていて、実に興味深くはある。
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どうでもいい、じじぃの日記。
ロシアのウクライナ侵攻には「宗教問題も背景にある」のではないか
ネットからの抜粋です。
現在のウクライナに存在する正教会は、17世紀以降は「ロシア正教会の管轄下」にありました。
1917年のロシア革命にさいし、「ロシア正教会」の一教区ではなく、「ウクライナ正教会」として独立すべきではないかという議論がなされ、それ以後、「ウクライナ正教会としての独立は悲願」となっていきます。
しかし、ロシア正教会はウクライナの教会独立は認めようとはしませんでした。そのため、ウクライナには大きく3つの正教会が併存します。
教会の独立は、地域を管轄する教会の承認が必要となりますが、モスクワ総主教庁の管理下に置かれたウクライナ正教会は、何度交渉しても承認しないモスクワ総主教庁を飛び越えて、コンスタンティノープル総主教庁と交渉します。
(https://diamond.jp/articles/-/299578)
まあ国が違うのだから、いつまでもロシア正教会の指揮下に置かれるのは嫌だというのもわかりますよね。