じじぃの「歴史・思想_563_物語ウクライナの歴史・コサックの栄光と挫折」

Wild EAST: The Cossack World

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=reoN6dldPkI

フメリニツキー

コトバンク より
ザポロージエ (ウクライナ) ・コサックのヘトマン (首領) 。ポーランドで教育を受け、ポーランド軍とともにトルコ軍と戦ったが、ポーランド人総督と衝突して、ザポロージエ・コサックのもとへ行き、そのヘトマン (1648~57) となった。
そこでポーランドの支配に苦しむコサックと農民を率いてポーランドに攻撃をしかけ、しばしば勝利を獲得したが、ついに敗れ、1654年ロシア皇帝アレクセイ1世に保護を求めるにいたった。ロシア軍はそれを受けて、ポーランドと戦い、ウクライナ (ドネプル川左岸) はポーランド支配から脱することができたが、自治の夢は実現されず、代ってロシアによる支配が漸次確立された。

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『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第3章 リトアニアポーランドの時代 より

ウクライナの語源

さて16世紀になると「ウクライナ」ははじめて特定の地を指すようになる。コサックの台頭とともに「ウクライナ」はドニエブル川両岸に広がるコサック地帯を指すようになった。たとえば1622年コサックの指導者(ヘトマン)サハイダチニーは、ポーランド王宛ての手紙で、「ウクライナ、われらの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を用いている。そしてコサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となり、コサックの指導者の宣言や文書にはそのような意味で使われる「ウクライナ」が繰り返し出てくる。
19世紀になりロシア帝国ウクライナの大部分を支配下に置く頃には、「ウクライナ」は現在のウクライナの地全体を表す言葉になる。しかし当時ロシア帝国ウクライナの地を公式に表すのに「小ロシア」という語を用いた。
19世紀のウクライナの国民詩人シェフチェンコは、「小ロシア」を屈辱と植民地隷属の言葉として排除し、「ウクライナ」をコサックの栄光の歴史と国の独立に結びつけて使った。
ウクライナ」が短期間なりとも独立国家の正式名称として使われるためには、なんと1917年ウクライナ民族主義者により「ウクライナ民共和国」の樹立宣言がなされるときまで待たなければならなかったのである。

第4章 コサックの栄光と挫折 より

コサックの生い立ち

15世紀頃からウクライナやロシアの南部のステップ地帯に住みついた者たちが、出目を問わない自治的な武装集団を作り上げた。「コサック」(ウクライナ語ではコザーク、ロシア語ではカザーク)とはその集団や構成員のことである。
13世紀中頃のキエフ・ルーシ解体の後、南のステップ地帯は荒れ果て、人口が希薄になっていった。強大を誇り、ステップを支配していたキプチャク汗国も14世紀末頃より衰退していき、15世紀末~16世紀初頭には解体して、クリミア汗国などいくつかの汗国に分裂した。またそれらの汗国に十分服属しないノガイ・タタールなどの遊牧民ステップ地帯に跳梁し、ルーシ人の町や村を襲って奴隷狩りを行うようになって、この地帯はますます無人の地となっていった。たとえば1450~1586年に86回のタタールの襲撃があったと記録されている。
ところが、ウクライナと呼ばれるようになるこのフロンティアは、危険ではあるが、それ以上に豊かで、魅力のある土地でもあった。15世紀にはすでに北西の人口過密地帯からドニエブル川やその支流に魚、野牛、馬、鳥の卵などを求めて来る者があった。最初に来た者はポーランドリトアニア領内の貧しい下級地主や町民であった。そして彼らは、はじめは数日のみやってきたが、そのうち夏の全期間滞在するようになった。また夏の期間だけ農業をする者も出てきた。そして夏が終わると魚、獣皮、馬、蜂蜜をもって家に帰った。しかしその帰途役人に分け前を取られることとなり、これを嫌って、ついには勇敢な者たちは冬も帰らないようになった。
辺境地帯が豊かだという噂は尾鰭(おびれ)をつけて広がった。

組織と戦闘方法

大部分のコサックは平時にはドニエブル川を中心とした地域の町や村に家族と一緒に住み、農業を営んでいた。畑を耕しながらも銃や剣は手放さなかったようだ。春と夏は数千人がシーチに向かい、そこを拠点として戦争・略奪のための遠征や漁労、狩猟に従事した。コダック軍団の中心となったザポロージエ・シーチは、前述のとおりドニエブル川の川中島にあり、土塁や木の塀に囲まれていた。男のみが入ることを許され、中央には広場があり、教会、学校、武器弾薬庫、幹部の家などがあった。シーチの人口には通常5000~6000人で、最盛期には1万人にもなった。シーチの外には市場(バザール)があり、ユダヤ人など非コサックの店が並んでいた。冬には数百人をシーチに残して大部分が町や村に戻った。
ザポロージエ・シーチの政治は平等の原則によって行われていた。軍事行動(戦争や略奪のための遠征)や外国との同盟などの重要事項は「ラーダ」と呼ばれる全体会議で決められた(なおラーダは現独立ウクライナの議会の名でもある)。コサックたちは毛皮の帽子を挙げたり、投げ捨てたり、そして大声を出して同意や反対の意思表示をした。コサックの首領であるヘトマンは、初期にはポーランド王によって任命されたが、後にはラーダ出席の全員によって選ばれた。いったん選ばれるとヘトマンは、とくに軍事面では独裁的な権限を行使した。

モスクワの保護下に

このようにフメリニツキー(ウクライナ・コサックの指導者、1595~1657)は外国との同盟や保護を求めておりとあらゆる可能性を探った。しかしそのほとんどが実を結ばず、約束ができても信頼性がなかった。その中で唯一長期的な重要性をもったのは、ツァーリの下にあるモスクワ国家との保護協定だった。同じ正教徒ということで、モスクワの庇護を求めるという考えは一般コサックには好評だった。モスクワは当時まだそれほど強力ではなく、強国ポーランドとの対決を避けたいと思っていたので、フメリニツキーからの申し出に最初は慎重だった。しかしフメリニツキーの勝利でポーランドも不敗ではないと気がつき、ついに同意した。その同意の背景には、かつてポーランドリトアニア連合国に奪われた領土を回復し、ウクライナをモスクワとトルコとの緩衝国としようとの思惑があったといわれる。1654年ペレヤスラフの町で協定が結ばれた。同協定は原本が紛失しており、不完全な翻訳しか残っていないが、ウクライナ史の専門家のなかには、それさえもモスクワに都合のいいように改竄(かいざん)されているとする者もする
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それにしても、フメリニツキーのコサック国家は当時事実上の独立国を形成していたのに、なぜあえて外国の庇護を求めなければならなかったのかという疑問を禁じえない。

これについて現代のウクライナ史学舎スブテルニーは、17世紀の東ヨーロッパでは国家の主権の観念はまだ存在しておらず、あったのは正統な君主個人に主権があるとの考えであり、その点フメリニツキーには人気はあったが、かかる正統性はないので、やはり外部に君主を見つけざるをえなかったとしている。また同じく現代のウクライナ史学舎マゴチは、この時代独立を維持するためには中央集団国家を作らざるをえず、コサック幹部の中にはかかる方向でしっかりした政府組織を作ろうとした者もいたが、一般コサックやザポロージエ・コサックは何者にも拘束されない社会を維持することを望んでいたので、この対外的な安全と国内的な自由を両立させるためには自治を前提として大国の枠内に入る他はなかったとしている。
ペレヤスラフ協定は、ウクライナにとっては結果的には破滅の第一歩となったが、モスクワ国にとっては帝国への道を歩み出す大きな一歩となった。この協定以来ツァーリの称号は「全ルーシのツァーリ」から「全大ルーシおよび小ルーシのツァーリ」と変わった。大ルーシとはロシアを、ルーシとはウクライナを指す言葉である。