じじぃの「歴史・思想_564_物語ウクライナの歴史・ロシア帝国の支配」

【絶望の地】小学生でもわかるヤバイ歴史・ウクライナの歴史

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3rnqx5Xaugk

ウクライナ語とロシア語はどれだけ似ているのか?

ウクライナ語とロシア語はどれだけ似ているのか?

2022年03月09日 GIGAZINE
ウクライナ語とロシア語の語彙は「約62%共有している」と言われるそうです。
この数字は、同じ計算方法での英語とオランダ語の語彙共有量とほぼ同じであることから、ベルメル教授は、共通部分があるからといって「同じ言語」と呼ぶことは難しいと述べています。その他、「同じように見えて異なる意味を持つ言葉」も両言語間で存在しており、言語を共有していると勘違いされがちな原因だとベルメル教授は指摘します。
ロシア語とウクライナ語は同じ祖先の言語から生まれています。また、ウクライナ国民の30%はロシア語を母語としているという調査があったり、非常に近い言語として共存し「スルジク」と呼ばれる混成語がウクライナの多くの地域で使われていたりと、類似性は多く認められます。しかしベルメル教授は、「ロシア語とウクライナ語の類似性から、両言語が別個の存在であることや、『1つの言語である』と主張する政治的な意味合いを見失ってはならない」と訴えています。
https://gigazine.net/news/20220309-ukrainian-russian-languages/

『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第3章 リトアニアポーランドの時代 より

ウクライナの語源

さて16世紀になると「ウクライナ」ははじめて特定の地を指すようになる。コサックの台頭とともに「ウクライナ」はドニエブル川両岸に広がるコサック地帯を指すようになった。たとえば1622年コサックの指導者(ヘトマン)サハイダチニーは、ポーランド王宛ての手紙で、「ウクライナ、われらの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を用いている。そしてコサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となり、コサックの指導者の宣言や文書にはそのような意味で使われる「ウクライナ」が繰り返し出てくる。
19世紀になりロシア帝国ウクライナの大部分を支配下に置く頃には、「ウクライナ」は現在のウクライナの地全体を表す言葉になる。しかし当時ロシア帝国ウクライナの地を公式に表すのに「小ロシア」という語を用いた。
19世紀のウクライナの国民詩人シェフチェンコは、「小ロシア」を屈辱と植民地隷属の言葉として排除し、「ウクライナ」をコサックの栄光の歴史と国の独立に結びつけて使った。
ウクライナ」が短期間なりとも独立国家の正式名称として使われるためには、なんと1917年ウクライナ民族主義者により「ウクライナ民共和国」の樹立宣言がなされるときまで待たなければならなかったのである。

第5章 ロシア・オーストリア両帝国の支配 より

両帝国支配下ウクライナ

18世紀末のポーランドの分割およびトルコの黒海北岸からの撤退によって、それ以降第一次世界大戦までの約120年の間、ウクライナはその土地の約8割がロシア帝国に、残りの約2割がオーストリア帝国に支配されることとなる。
ロシア帝国では、ツァーリ専制君主制、中央集権制の下でロシア化が進められ、17世紀にあれほど燃え上がったコサックのウクライナナショナリズムも19世紀にはすっかり下火となり、単なるロシアの一地方に堕していった。もっともナショナリズムの火はまったく消えたわけではなく、コサックに代わるインテリゲンツィアという新しい階層の下で育まれ、第一次世界大戦時のウクライナ中央ラーダ政府の結成につながっていくのである。他方、19世紀からロシアで資本主義が勃興すると、ウクライナ南東部では当時のヨーロッパでも例を見ないほどの急速な工業化が進み、帝国内最大の工場地帯となった。ここに古代から綿々と引き継がれた「農業のウクライナ」が、政治的な独立のないまま「工業と農業のウクライナ」にドラスティックに変貌することになった。
オーストリア帝国においても皇帝および官僚の権力は強かったが、帝国内の民族は非常に多様でウクライナ民族を主要民族に同化させる圧力はなかったし、西欧に近いだけに専制の程度はロシアより弱かった。

そのためオーストリア支配下ウクライナは、地域は狭いながらもナショナリズムの拠点となっていった。この西欧の影響を受けた西部地域は現在に至るまでロシア・ソ連色の薄い特異な地域でありつづけることになる。

ナショナリズムの高揚と政党の成立

1855年に超保守主義者のニコライ1世が死亡し、改革主義者のアレクサンドル2世が即位すると統制は少し緩まった。キリロ・メトディー団のメンバーだった知識人たちは「フロマダ」(社会)という組織を作り、活動を再開した。また最初の雑誌『オスノーヴァ』(基礎)を1861年に発刊した。コストマーロフは『2つのロシアのナショナリティー』という論文を書いてロシアとウクライナは別の民族だと主張した。
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ウクライナの民族運動が新たな段階に入るのは、日露戦争の敗北をきっかけに起こった第一次革命のときである。1905年1月ウクライナ出身の聖職者ガポン(1870~1906)に率いられてサンクトペテルブルクで平和裏に請願していた一団に警察が発砲し、多数の死傷した。この血の日曜日事件が端緒となり各地にストライキが頻発した。軍においても反乱が起きたが、そのもっとも有名なものがオデッサ港で起きた戦艦「ポチョムキン」の反乱である。

オーストリア帝国下では

オーストリア帝国に組み込まれたウクライナは3つの地域よりなる。第1は、1772年ポーランドの分割によって獲得した旧ポーランド領の東ハーリチナ地方(主都市リヴィウ)である。第2は、その2年後の1774年オスマン・トルコ帝国より獲得したブコヴィナ地方(主都市チェルニフツィ)である。ブコヴィナはカルパチア山脈の南東麓に位置する比較的狭い地域でルーマニア人とウクライナ人が混住している。第3は、カルパチア山脈の南麓に位置するザカルパチア地方(主都市ウジホロド)である。ここはウクライナ人が主要民族であるが中世以来ハンガリー王国の領地であり、ハンガリーオーストリアに属して以来オーストラリアの間接支配の下に入った。そしてオーストリア帝国下のウクライナ人は、宗教的にはほとんどユニエイト(ギリシャカトリック)であった。またハーリチナではウクライナ人は、ルーシ人がラテン語化した「ルテニア人」という名前で呼ばれた。
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その後もハーリチナでのウクライナ人の民族覚醒の動きは着実に進んだ。1860年代および1870年代には民族主義的な多くの組織が結成された。1890年には作家イワン・フランコ(1856~1916)らによって「ウクライナ急進党」が設立された。同党は近代ウクライナ史上はじめてウクライナの統一・独立を標榜した。また1890年代から1900年代はじめには各種の文化運動も盛んになった。1894年にはリヴィウ大学にウクライナ研究の講座がはじめて設けられ、キエフ生まれの歴史家ミハイロ・フルシュフスキー(1866~1934)が教授になった。そして彼の指導の下「シェフチェンコ科学協会」がウクライナ科学アカデミー的な役割を果たした。
こうして、19世紀末~20世紀初頭においては、ロシア帝国内のウクライナ民族主義運動は低調だったのに比し、オーストリア(1867年よりオーストリアハンガリー二重帝国となる)の比較的自由の下でハーリチナがウクライナ民族主義の中心になった。