じじぃの「歴史・思想_558_物語ウクライナの歴史・キエフ・ルーシ公国の建国」

キエフ・ルーシ大公国

世界史逍遥: 映画でロシア史を観る 「バトル・キングダム 宿命の戦士たち」

2014年5月2日
2010年にロシアで制作された映画で、日本語版の「バトル・キングダム」というタイトルは意味不明です。
原題は「ヤロスラフ」で、英語版では「王子ヤロスラフ」です。サブタイトルは「千年前」で、日本語版の「宿命の戦士たち」というサブタイトルも意味不明です。こういうタイトルを考える人は、映画をちゃんと観ているのでしょうか。もっとも、この映画は日本人からすれば相当マイナーな映画で、私自身も主人公のヤロスラフや舞台となったロストフも知りませんでしたので、相当調べまくりました。
時代はキエフ大公国の時代で、当時はルーシと呼ばれていました。キエフ大公国は、日本の世界史ではロシア史の一環として教えていますが、この国は今日からいえば、ウクライナベラルーシ、ロシアのルーツとなった国です。
http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/05/blog-post.html

原初年代記

ウィキペディアWikipedia) より
原初年代記は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記(レートピシ)である。
初版は1113年に編纂された。過ぎし年月の物語とも。
年代記の前半部は、
・ヴァリャーグ人3兄弟の到着
キエフの創立
・アスコルドとジールの謀殺
・愛馬の頭骨からでた蛇に噛まれて死んだオレグ
・オレグの後継者であるイーゴリの妻オリガによって行われた夫を暗殺したデレヴリャーネ族への復讐
スラヴ人の中で伝教を務めた聖人キュリロスとメトディオスの仕事の説明
キエフキリスト教化したウラジーミル聖公の雷神ペルーンおよびその他の偶像神信仰への抑圧
など逸話的な話に富んでいる。

キエフ大公国

ウィキペディアWikipedia) より
キエフ大公国(英: Kievan Rus')は、9世紀後半から13世紀半ばまで、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパの東スラヴ人、バルト人、フィンランド人が、ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた国である。
ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代国家はいずれもキエフ大公国を文化的祖先とし、ベラルーシとロシアはそれに由来する名称である。リューリク朝は16世紀にロシア・ツァーリ国となるまで大公国の一部を支配し続けた。11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。
キエフ大公国(正式名称「ルーシ」)は、複数の公国の連合であり、キエフ公国もそれら公国の中の一つである。そのため、日本語名称の「キエフ大公国」は、ルーシ全体を指しているのかその中のキエフ公国だけを指しているのかが分かり難い。
原初年代記によれば、東スラヴの諸地域を現在のキエフ大公国に統合し始めた最初の統治者はオレグ王子(879年-912年)である。

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『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』

黒川祐次/著 中公新書 2002年発行

第2章 キエフ・ルーシ――ヨーロッパの大国 より

キエフ・ルーシは誰のものか

本来はキエフ・ルーシ王国といったほうが実態から見て公平であると思われ、現にウクライナ民族主義的色彩の濃い史書には王国と称するものもあるが、本書では慣例に従いキエフ・ルーシ公国(ないし大公国)と呼ぶことにする。
また「キエフ・ルーシ」という呼び方についても、当時は単に「ルーシ」とのみ呼ばれていたので、本書でも本当は「ルーシ(大)公国」と呼びたいところである。ところがその後ルーシより派生した「ロシア」が別の国家を指す言葉として使われるようになり、そのロシアとの混同を避けるため、後世になって「キエフを都とするルーシ」という意味でキエフ・ルーシと呼ぶことが慣例となった。したがって残念ではあるが本書もこの慣例に従う。
さて、このキエフ・ルーシ公国はこれまでロシア(ソ連)史の文脈の中でとられられてきた。ロシア(ソ連)は大国であり、ウクライナは独立さえしていなかったから、それはある意味でやむをえなかった。しかしウクライナがロシアとは別個の国として独立してみると、あらためてキエフ・ルーシは誰のものかという問題が生じてくる。すなわちそれは、ロシアかウクライナかどちらの歴史に属するものか、キエフ・ルーシ公国の直系の後継者はロシアかウクライナかという問題である。
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いずれに分があるかはさておき、それではキエフ・ルーシ公国はどのような国であったか見ていくことにしよう。

スラヴ人の登場

スラヴ人は不思議な民族である。多くの民族や国家はその武力により興り、広がった。ところがスラヴ人に限っては、少なくともその初期の時代には強大な武力をもっていたという記録がない。それにもかかわらずスラヴ人は、東ヨーロッパに静かに広まり、気がついたときにはその地の主要民族になっていた。他に軍事的に強い民族がいなかったわけではない。それどころか、スラヴ人より武力の勝った幾多の遊牧民族がいながら、そのほとんどはスラヴ人に吸収されてしまい、結局残ったのはスラヴ諸族であった。
このようにスラヴ人は目立たない形で歴史に登場したため、その起源や故地については必ずしも明確でない。前章で触れたようにスキタイを構成していた農耕集団やサルマタイ人と深いかかわりのあるアント人がスラヴの先祖だとする説もある。いずれにせよ現在のヨーロッパを構成するラテン、ゲルマン、スラヴの3大民族のうちでは歴史に登場してくる時期がもっとも遅く、文献上に現れるのは6世紀である。また通説は、スラヴ人の故地を、南はカルパチア山脈、西はオーデル川、北はプリピア川、東はドニエプル川に囲まれた地域、すなわち現在のウクライナ西部とポーランド東部に求めている。スラヴ人は7世紀はじめよりこの地域からゆっくりと平和裏に、そして全方向に拡がっていった。しかも、他の民族がその故地を離れて移動したのとは違い、故地を離れることなく広がった。これは、スラヴ人が放牧や狩猟の民ではなく農耕を主とした民族であったことが大きい。
スラヴ人の中でもキエフ・ルーシを形成したのは東スラヴ人であるが、この東スラヴ人が現在のロシア人、ウクライナ人およびベラルーシ人の先祖となる。東スラヴ人の居住地は、遺跡からすると4~20戸の丸太小屋からできた小さな村が2~3キロメートルごとに点在するというものであったらしい。そしてそのような村が集って氏族社会ができていたと想像される。当初は農業中心で副次的に牧畜、養蜂、狩猟、漁労を営んでおり、交易は発達していなかった。それが8世紀になってイスラム教徒のハザール商人がこの地へ入ってくるに従い、事態は一変した。ハザール人から布、金属、装飾品などを買い、彼らに蜂蜜、蜜蝋(みつろう)、毛皮、奴隷などを売る交易が盛んになった。こうして東スラヴ人の社会にも商品経済が入り込み、より明瞭な政治組織が形成されてくる。また有力な指導者も現れてきた。その文献上の最初のものが、12世紀の初頭に編纂された『原初年代記』に現れるキエフの町の創設にかかわる伝説である。

『原初年代記』は、キエフ・ルーシ公国の建国からその繁栄と衰退までを扱った最初の歴史書である。同年代記はその書き出しの言葉によって『過ぎし年月の物語』ともいわれるが、歴史書であると同時に、その生き生きとした描写によってロシア、ウクライナベラルーシを含む東スラヴ世界の最初の古典文字とされている。

さて、同年代記によれば以下のとおりである。東スラヴ人の中でキエフ周辺に住んでいたのはポリャーネ氏族であった。キー、シチェク、ホリフと1人の妹ルイベジがいた。キーはポリャーネ氏族の長であった。そして彼らは町を作り、長兄の名前にちなんでキエフと名づけた。これがキエフの始まりである。

ハザール可汗国

キエフ・ルーシ公国は東スラヴ人の居住地域に建設されたが、その触媒的役割を果たしたのがハザール人と北欧からのヴァリャーグ人(ヴァイキング)であった。

まずハザール人から見てみよう。ハザール人はもともとトルコ系の遊牧民族で、6世紀半ば以降ヨーロッパ東部に出現した。一時は中央アジアに覇を唱えた西突厥(とっけつ)の宗主権の下にあったが、7世紀半ば西突厥が衰えるとともに独立し、ハザール可汗国を興した。ハザール可汗国はカスピ海北岸から黒海沿岸を支配下に置き、7世紀半ばから9世紀半ばの最盛期にはビザンツ帝国イスラム帝国と肩を並べる大国となった。ハザール帝国と呼ぶ史家もいる。また、カスピ海は当時「ハザールの海」と呼ばれた。
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このように栄えたハザール可汗国も10世紀頃から新たな遊牧民キエフ・ルーシ公国の攻撃を受けて衰退していった。ハザールの名が文献に最後に現れるのは1075年のことであり、その頃滅亡したと思われる。

キエフ・ルーシの建国

ハザールがキエフ・ルーシの建国の土壌を整備したとすれば、東スラブ人の地に実際に国家を樹立したのは北欧から来たヴァリャーグ人であった。
8~11世紀のスカンディナヴィアでは理由不明の人口爆発が起こり、人々は海を越えて四方に進出した。ヴァイキングの時代である。スカンディナヴィアのスウェーデン人は、東スラヴ人から「ヴァリャーグ人」と呼ばれたので、本書でもそれに従う。ヴァリャーグ人は南東へ向かった。彼らは武力に売らず蹴られた進取の気性と商人の才能をもっていた。いわば冒険商人である。
ヴァリャーグ人は最初バルト海沿岸に進出し、次第に現在のサンクトペテルブルクの地域に交易の拠点を兼ねた要塞を築いていった。
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一族のオレフ(オレグ)はアスコルド、ディル兄弟を滅ぼし、キエフ公となった(公としての在位882~912)。オレフは近隣の諸部族を従属させ、ハザール可汗国への貢納をやめさせた。また907年オレフは40人乗りの船2000隻を率いてコンスタンティノーブルを攻め、ビザンツ皇帝との間でルーシの商人を優遇する有利な条約を結ぶことに成功した。オレフは都をノヴゴロドからキエフに移し、キエフからノヴゴロドに至る広大な地を支配し、またビザンツ帝国からも恐れられる王国を建設した。オレフこそが実質的にキエフ・ルーシ公国の創始者といってもよいだろう。