じじぃの「歴史・思想_334_ユダヤ人の歴史・さまよえるユダヤ人・東欧諸国」

Migrations: Russian and Eastern European Jewish

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=C1coJoFy_x4

Poland during the Chmelnitzki riots of 1648

The Jewish Community of Izmir

DICIEMBRE 23, 2016 eSefarad
A family in Izmir hosts a refugee from Poland during the Chmelnitzki riots of 1648. Diorama at Beit Hatfutsot core exhibition.
https://esefarad.com/?p=75617

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

東欧のユダヤ人 より

東へ目を向けると、ユダヤ人はロシア国境地帯、とりわけ黒海沿岸で遅くともヘレニズムの時代から活躍してきた。アルメニアグルジア(現・ジョージア)のユダヤ人はアッシリアに蹂躙(じゅうりん)されたイスラエル北王国の失われた10部族だとする伝承さえある。8世紀前半には、ハザールの王国がユダヤ教に改宗している。中世初期からユダヤ人は、ヨーロッパとアジアの南部をまたにかけて積極的に貿易や布教活動を行なってきた。1470年代には、急速に領土を広げつつあったモスクワ公国でユダヤ人が活躍し、秘密結社のようなものまで誕生している。当局はこれをユダヤかぶれと呼び、残忍な手だてでこれを根絶しようとした。「雷帝」の異名で知られるツァー、イヴァン4世ヴァシレヴィッチ(1530~84年)は、あくまでキリスト教を信奉しないユダヤ人を水で沈めて殺すよう命じた。ユダヤ人が公式にロシア領から締め出され、18世紀末のポーランド分割までその状態が続く。
ロシアが壁となって東への進入路が絶たれたため、ユダヤ人はポーランドリトアニアウクライナに集中するようになった。暗黒時代から中世はじめにかけての西欧においてと同様、ユダヤ人は大規模な入植のプロセスで重要な役割を果たす。ポーランドでは農業と商業が急速に発展し、人口も驚異的な伸びを示した。1500年頃のポーランドの人口は約5000万人で、そのうちユダヤ人の数は2万から3万に過ぎなかった。総人口が7000万人に達した1575年には、ユダヤ人人口は15万人は跳ね上がり、その後もピッチをあげて増え続けた。

1648年の大惨事とその結果 より

1648-49年、ポーランド南東部とウクライナユダヤ人は大惨事に見舞われる。この事件はユダヤ人民族史にとって重大な意味を持つ。その理由は後で述べるが、この事件を目の当たりにして、各地のユダヤ人は自分たちの立場がいかにもろいか、そして、怒りにまかせ何の前触れもなく襲いかかってくる人々がいかに恐ろしいかを改めて思い知ったのでのである。30年戦争のためにポーランドにおける輸出食糧の供給源はどんどん圧迫されていった。種々の軍隊への食糧供給を請け負ったユダヤ人がそれを見事にやってのけたのは、ポーランドにおける彼らの供給網のおかげであった。しかし、それによって最大の利益をあげたのはポーランド人の地主で、貧乏くじを引いたのはポーランドウクライナの小作農であった。小作農が作った穀物は、厖大な利益を上乗せして軍に売りに出された。軍の食欲はとどまるところを知らず、軍に売り払われる穀物の量は増え続けた。ポーランドの帰属が、土地だけでなく製粉所、醸造所、蒸留酒製造所、宿屋などの固定資産や徴税権をすべて定額でユダヤ人に貸すというアレンダ制度のもとで、ユダヤ人の商売は繁盛し、人口も急増した。しかし、これは初めから不安定で不正な制度であった。金づかいの荒い者が多かった不在地主は契約を更新するたびに賃貸料の値上げをユダヤ人に迫り、ユダヤ人はそれを小作農に転嫁した。
ウクライナでは、この不正がことさら憤りを買った。カトリック教徒の貴族とユダヤ教徒の中間商人がギリシャ正教徒の小作農を苦しめていたからである。
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1648年の晩春、ウクライナの小作農はついに蜂起する。先頭に立ったのは下級貴族のボグダン・フメルニツキーで、ドニエブルのコサックとクリミアのタタール人から支援を受けていた。フメルニツキーの本来の標的はポーランドによる支配とカトリック教会で、ポーランド人の貴族や聖職者たちを血祭りに上げられた。しかし、小作農たちの敵意は彼らと接する機会の多かったユダヤ人に向けられた。
土壇場になると常にポーランド人はユダヤ人の盟友を見捨てて自分だけ助かろうとした。村々や町区(シュテートル)から何千というユダヤ人がわれ先に安全を求めて防備の固い大きな町へと向かったが、かえってそれが命取りになる。トゥリチンでは、ポーランド軍が自分たちの命と引き換えにユダヤ人をコサックに引き渡した。テルノポリの駐屯地では、守備隊がユダヤ人を一人も中へいれなかった。バルの要塞は陥落し、ユダヤ人は皆殺しされた。ナロルでも殺戮の嵐が吹き荒れた。ニミロフではポーランド人の格好をしたコサックが要塞に入り込み、「住民6000人の命を奪った」とユダヤ人の年代記に記されている。「数百人を溺死させたり、あの手この手で惨殺した」。シナゴーグでは儀礼用のナイフでユダヤ人を刺し殺してから建物を焼き、宗教書を引き裂いて足で踏みつけ、皮の表紙でサンダルを作ったりした。
死亡したユダヤ人の正確な数はわかっていない。ユダヤ人の年代記によれば、死者は10万人、全滅した共同体は300にのぼったという。だが、大半のユダヤ人は逃亡し、この大虐殺は「ポーランドユダヤ人の歴史が大きく変わった岐路というよりは、そのたゆまぬ伸びを一時的に止めた残忍な事件であった」と考える歴史家もいる。年代記が死者の数を大げさに書いていることは間違いない。だが、難民の語る話を聞いたユダヤ人は、ポーランドに住む者も外国に住む者も、みな深い精神的打撃を受けた。