じじぃの「歴史・思想_549_白人侵略・満州事変」

『日本歴史建造物 (旧.大日本満州國首都新京市)天照大神 中国吉林省長春 関東軍司令部跡』

2017/05/01 フォートラベル
https://4travel.jp/travelogue/10674711

石原莞爾の思想 -歴史というダイナミズムの捉え方

松下政経塾
石原莞爾と聞くと、一般的な評価としては、満州事変を引き起こし日本を戦争へと導いた「戦争犯罪人の一人」というイメージが語られることが多い。他方では、日中戦争を世界平和のための戦争と捉えた平和主義の先駆者という見方もある。
石原がその特異な才能を発揮するのは、満州事変からである。
後述するように石原は満蒙領有の構想が示したが、結局は陸軍中央、関東軍内部との調整の結果、満州国家を独立させる方針を採ることになるが、1931年の柳条湖事件を機に満州事変が始まる。兵力は関東軍1万人に対し中国軍は25万人(別の資料によれば、公安隊を含め45万人)と、圧倒的に不利な状況であった。また装備も自動小銃など中国軍の方が良いものが多かったにもかかわらず、たった5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国した。
これは、第2次世界大戦における、ドイツの電撃作戦(対ポーランド・フランス)に匹敵する戦果であったため、作戦の立案・実施を行った石原は「戦争の天才」と称されようになったのであるが、この戦勝をきっかけとして石原の思惑とは裏腹に、日本は中国軍の実力を極端に軽視し、戦火を拡大する方向に傾いていく。
https://www.mskj.or.jp/report/2803.html

『白人侵略 最後の獲物は日本』

三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行

第13章 日本包囲網 より

ドイツ代表団は賠償額を300億マルクと見積もっていたため、その4倍を超える要求に愕然とした。
報告を受けたシャイデマン首相は「これは、ドイツに滅べと言っているに等しい」と嘆き、就任直後にも拘わらず首相の座を投げ出してしまった。
後任に就任したグスタフ・バウアー首相は講和条件をすべて呑む決意をして、1919年6月28日にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で講和条約に調印した。
これで1914年から1918年にかけて、4年4ヵ月におよぶ第一次世界大戦終結を迎えたが、新たな火種を2つ撒いた。
支払い不可能といえる莫大な賠償金を課されたことで、ドイツ人の心に深い怨みが芽生え、その怨みがナチス国家社会主義労働者党)の指導者アドルフ・ヒトラーを生み出すのである。
フランス軍のフォッシュ元帥が側近に漏らした「ヴェルサイユ条約の締結は戦争の終結を意味しない。新たな災禍を招くであろう」という予言は的中する。
ドイツがヴェルサイユ条約で定められた軍備制限を破棄して、第二次世界大戦の発端となる「ポーランド侵攻」を決行するのは、ヴェルサイユ条約の締結からちょうど20年後の1939年である。
もう1つの火種となったのが日本の台頭である。
15世紀に大西洋に乗り出したヨーロッパの白人たちは、南北アメリカ大陸とアフリカの大陸を席巻したあと、ホーン岬喜望峰から太平洋とインド洋へと回り、500年の歳月をかけて中東、西アジア、インド、東南アジア、清国、オセアニアに押し入り、地球の陸地の99.25パーセントを掠領してきた。
あと残り0.75パーセントとなった「日本」「朝鮮」「タイ」を征服すれば、世界征服が完了するはずであった。
ところが最後の最後で、世界一の陸軍大国ロシアが、財力も工業力もロクな産業も持たない農業国の日本に叩きのめされた。
しかも日本の勝利は、欧米列強の支配下に置かれた有色人種に独立自尊の精神を植え付け、白人支配に対する抵抗運動(レジスタンス)が世界中で始まった。
さらに、第一次世界大戦でも戦勝国となり、世界の5大国にのし上がった日本は、1920年パリ講和会議で「人種差別撤退」を訴えた。
統治下に置いた朝鮮、台湾、南洋諸島では、虐殺や収奪どころか近代化の手助けを始めた。
なかでも日本防衛の要衝となる朝鮮への支援は手厚いものがあった。
国家予算の20パーセントを費やして川の護岸工事を行い、1500を超えるダムを建設して洪水を防ぎ、山林や荒地を開墾して田畑に変え、水を引いて米の収穫量を10年後に2倍、30年後には3.3倍に引き上げ、その米を日本が輸入して農家を潤した。
橋を架け5000キロに亘る鉄道を敷き、推力発電所を建設して産業を起こし、有能な起業家には惜しみない資金援助を行った。
そのうちの1人、イ・ビョンチョル(李・秉喆)が後に築き上げたのが、韓国最大の財閥となるサムスングループである。
医療の分野でも徹底的な改革を行う必要があった。
日本政府は下水道を通して街を覆っていた糞尿を処理し、赤痢チフスを媒介する虱(しらみ)、蠅、溝鼠(どぶねずみ)の駆除を徹底的に行って疫病の拡大を防ぎ、病院を建てて予防接種を受けさせた。
その結果、日本が朝鮮を併合した1910年から30年間で、朝鮮人の平均寿命は25歳から57歳にまで伸び、人口は1300万人から2500万人まで1.9倍に増加した。
教育の分野でも、日本の朝鮮併合時に30数校しかなかった初等学校を5000校以上に増やして、3パーセントに満たなかった識字率を50パーセント以上に引き上げ、1924年には「大阪帝国大学」「名古屋帝国大学」に先んじて、日本にとって6番目の帝国大学となる「京城帝国大学」を設立した。
李氏朝鮮時代から続く身分制度も廃して、人口の3割を占める奴婢、白丁といった名前しか持たない賤民に苗字を与え(創氏改名)、日本への出稼ぎを渇望する貧困層朝鮮人大東亜戦争終結までに200万人を受け入れて、その生活を支えた。

そのうえで、日本・漢・満州・モンゴル・朝鮮民族による「五族共和の王道楽土」の建設を唱え、欧米列強のアジア支配からの脱却を援(たす)ける動きを見せた。

――目障りな国(やつら)だ。
白人たちはそう思ったことだろう。
有色人種から土地と財産を奪い、奴隷化することで富を築いてきた白人たちにとって、欧米列強の浸食を尽(ことごと)く退け、「人種平等」を提唱する日本は「存在してもらっては困る国」となった。
中でもアメリカは日本を激しく憎悪した。
ハワイを乗っ取ったときに日本に大恥をかかされ、日露戦争のときにはルーズベルト大統領の斡旋抜きで南樺太を勝ち取り、ロシアから譲渡された南満州鉄道の経営にアメリカを参画させなかった。
太平洋に艦隊を持っていないアメリカの対応は早かった。
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パリ講和会議では、日本が提案した「人種差別撤廃案」をオーストラリアと組んで廃案に追い込み、1922年のワシントン海軍軍職条約では、米・英・日の戦艦保有比率を5・5・3にして日本の軍事力を削いだ。
さらに、第一次世界大戦の勝利で日本がドイツから獲得した山東半島も返還させた。
その山東半島を返してもらう当事国である清国は既に消滅していた。
清国国内では「阿片戦争」「アロー戦争」「清仏戦争」「日清戦争1「北進事変」と外国勢力から蹂躙され続ける清王朝の体たらくに漢民族が怒りを爆発させ、支那全土で決起して、1912年に清朝を滅ぼし(辛亥革命)、「中華民国」という名の国を打ち立てていた。
山東半島を労せずして手に入れたのは漢民族だったのである。
その漢民族の国では、発足直後から政府内で壮絶な権力闘争が起こり、そこへ皇帝の座を狙う支那各地の軍閥までもが入り乱れて、国家とは名ばかりの戦国時代に入った。
この支那の内乱が、白人たちに日本潰しの絶好の機会を与えるのである。
軍閥同士の覇権を巡る争いは支那全土に及び、排外主義運動も相まって、支那各地にある外国人居留地までもが襲撃されるようになった。
1927年3月24日には、蒋介石軍が南京にある日米英仏の領事館や居留地を襲撃して老女から少女まで30人の婦女子を強姦するというおぞましい事件を引き起こした(「南京事件」)。
翌日、米英仏軍の艦艇が艦砲射撃で蒋介石軍を南京から掃討するのだが、日本政府のみが支那で最大勢力を誇る蒋介石との軋轢を恐れて、現地の日本軍に報復措置を禁じた。
そのため、蒋介石軍のみならず、支那各地の軍閥や民間の支那人にまで日本は舐められるようになり、以降、日本人に的を絞った襲撃事件を招く結果となった。
日本政府は漸く支那に派兵を開始したが、飽くまでも居留民を守るためであった。
しかし、派遣部隊が相手にするのは、そんな理屈が通用するような正常(まとも)な連中ではない。
「痴漢」「悪漢」「暴漢」「無頼漢」「冷血漢」ロクでもない人物を言い表すこれらの言葉は漢民族に由来する。
現地に着くや忽(たちま)ち支那兵の容赦ない攻撃に晒されて、否応なしに戦わざるを得なくなった。
とばっちりを喰ったのが民間人である。
支那軍は撃退されて兵を退くとき、退却路にある街や村落に火を放ち、村人が飲料水として利用している井戸にまで毒を投げ込んで日本軍が利用できないようにしていった。
蒋介石軍などは黄河の堤防を破壊して流域の村を水没させ、日本軍の追撃を阻むのである。
お人好しの日本軍は、流された農民を救出し、決壊した堤防を修復する間に逃げられてしまった。
しかも、蒋介石軍は南満州に乱入して日本の権益を脅かすようになり、1931年9月18日には、日本が経営する南満州鉄道の線路が爆破される事件が起こる(「柳条湖事件」)。
この事件が発端となって、南満州を警備している関東軍蒋介石軍との大規模な軍事衝突が起こり(「満州事変」)、関東軍蒋介石軍を満州から掃討して、翌年に「満州国」を建国するのだが、この関東軍の一連の行動について、戦後「政府の許可も取らずに軍部が暴走した」だの「作戦主任参謀だった石原莞爾の謀略だ」だのと酷評されて、関東軍はすっかり悪役にに仕立てられてしまい、どの百科事典にも「満州事変は日本の侵略戦争である」と記され、史実として定着してしまった。
だが、ここまで関東軍を断罪するのは酷というものだろう。
航空幕僚長だった田保神俊雄氏の著書『田保神戦争大学』(産経新聞出版)からの引用だが、世界の何処(どこ)の国の軍隊も「民間人への攻撃」や「捕虜の虐待」などの禁止事項以外、何をやってもいいという「ネガティブリスト(原則許可、一部禁止)」で動く。戦場で不測の事態が起こるのは当たり前で、そんな時にいちいち本国政府にお伺いなど立てている暇などない。
敵に急襲されたとき、瞬時の判断で行動しなければ部隊は全滅するし、戦争に敗れれば国は滅び、延(ひ)いては民族の滅亡に繋がるからだ。
確かに柳条湖事件から満州国建国に至る関東軍の一連の行動は、教科書や百科事典に記してあるように関東軍の作戦主任参謀だった石原莞爾が仕組んだものである。
戦後、石原自身が戦勝国の取り調べで「満州事変を起したのも、満州国を作ったのもこの俺だ。なぜ俺を裁かんのか」と言って詰め寄ったのだから間違いない。
それでも戦勝国は復讐裁判で石原を戦犯として裁くことができなかった。