じじぃの「科学・芸術_635_朝鮮戦争の勃発」

A History Of The Korean War 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-X7nbwFxGRU
The Korean War 1950-1953

The Korean War Begins

アメリカ人の歴史Ⅲ』 ポール・ジョンソン/著、別宮貞徳/訳 共同通信社 2002年発行
朝鮮戦争の勃発 より
アメリアが世界中に基地網を張りめぐらしている背後にも、海外援助計画の「封じ込め」戦略がが働いていた。この地政学的方針が初めて表だって論じられたのは、「フォーリン・アフェアーズ」誌1947年7月号である。「ソ連の行動の源泉」と題され、「X」(ジョージ・ケナン)と署名された論文に、合衆国は「たえず移動する一連の地理的、政治的要衝に機敏に油断なく対抗兵力を振り向ける」ことによって、「ソ連の拡張主義的傾向を辛抱強く、しかし断固として油断なく封じ込める」ことが必要だ、と述べられている。
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FDR(フランクリン・ルーズベルト)は国民党の腐敗した指導者、蒋介石を支援し、供与した軍事援助と武器貸与法にもとづく軍事物質はかなりの量に達していた。トルーマンがこの政策を継続したため、1945年から49年にかけて蒋介石は「経済安定化借款」として5億ドル、総計20億ドルの援助を受け取っている。しかし、国民党と百戦錬磨の農民軍をひきいる中国共産党の指導者、毛沢東を和解させる努力は失敗に帰し――マーシャル将軍が使命をおびて中国に向かったが何の成果もなく生まなかった――いったん内戦が本格的に始まると、アメリカの援助はことごとくインフレの泥沼に消えうせた。通貨が崩壊したことから、もとは巨大だった蒋介石の軍隊は解体され――その多くは毛沢東の軍隊に吸収された――毛沢東は1949年4月には揚子江を越え、同月には首都南京を占領していた。蒋介石は中国本土から追い出されて台湾に上陸し、アメリ第7艦隊を盾としてこの島を要塞と化した。トルーマンは「中国を失った」と共和党とチャイナロビーから避難されたが、ありていに言って、中国は勝手に消えうせたのである。そこで、極東では封じ込めの線をどのように引いたらいいかがあらためて問題になった。
またしても、スターリンが自信なげなアメリカの戦略家に救いの手をさしのべてくれた。封じ込めの線がどこを通っているかに疑いを持たれていたのが、1950年1月12日、国務長官となっていたディーン・アチソンがナショナルプレスクラブで愚かな演説をしたからたまらない。いよいよはっきりしなくなった。アチソンは、中国は今や共産国だが、ユーゴスラビアのの独立独歩の共産党指導者チトー元帥と同じく、その指導者、毛沢東は必ずスターリンとけんかする、と主張するつもりでいた。ところが、この点をはっきりさせようとして――この点の正しかったことはその後の歴史によって証明される――口をすべらせ、台湾、インドシナ、朝鮮をアメリカの防衛線から除外しているように思われてしまった。この演説をスターリンが読み、その注意を引いたのはまちがいない。
スターリンはチトー相手におかしたあやまちを繰り返したくないと考え、アチソンは知らなかったが、そのとき、毛に取り入るようなそぶりを見せていた。アチソンが中ソの断交は避けられないと述べたことは、かえってスターリンをしてその危険性に目を開かせ、朝鮮がアメリカの死活領域から除外されたようにみえたことは、その防止策を暗示していた。朝鮮で限定的な代理戦争が起これば、中国は真の利害がどこにあるかを悟るだろう、とスターリンは判断を下す。スターリンがほんとうにそう読んでいたとすれば、その読みは正しかった。朝鮮は中ソ断交を10年先送りした。しかし、その一方で戦争をもたらしもした。スターリンは1950年春、11月に38度線を越えて限定的な攻撃をしかけてもよい、と北朝鮮労働党の独裁者、金日成に言質(げんち)を与えたようである。この線で朝鮮は北の共産地域と南の非武装地域に分断され、南には500名のアメリカ軍が顧問として配置されていた。しかし、金日成は慎重な男でも、言いなりになるような男でもない。スターリンのさりげない言葉を全面的な侵攻を許可したものと受け取り、1950年6月25日に進撃を開始した。
6月26日、日曜日、アチソンが侵攻は大規模なものだという情報を伝えると、大統領いわく、「ディーン、何が何でもあのくそったれどもを阻止しなきゃいかんよ」。これはまさしくトルーマンのやり方で、またまさしくこのように話したのである。公式な介入決定が下されたのは、いつものように慎重な手続きをへてのことだったが、最初の10秒で出た反応が、回想のとおりだったことはまちがいない。合衆国は断固とした行動に出られる状況にある。そう思っていた。原爆保有数は今や500発に近づいていたし、原爆をソ連領内の目標に投下できる航空機は264機にのぼっている。日本の最高権力者マッカーサー将軍に指揮を命ずると、トルーマンはまずは思う存分腕を振るわせた。なかでも、1950年9月15日に開始された仁川上陸作戦は、大胆かつ危険きわまる賭けだったが、またたく間に全面的な勝利を収めた。ソ連も中国もこの戦争に介入してこない場合には、38度線以北で軍事行動を展開し、北朝鮮を軍事占領することも考慮する、としたNSC勧告を、トルーマンは承認する。これを受けて、国防長官となっていたジョージ・マーシャルは9月29日、「貴官が38度線を越えて北に進撃するについては戦術的にも戦略的にも何の制約もないと思ってよろしい」とマッカーサーに打電した。
中国はこの危機に乗じて、まず半独立国だったチベットを吸収し(1950年10月21日)、ついでアメリカ軍が国境に迫ると「義勇軍」の大部隊をもって攻勢をかけてきた(11月28日)。トルーマンは10月13日、1万2000キロのかなたにあるウェイク島に飛んでマッカーサーと会見し、その「先見性、判断力、不屈の意志、勇敢さ、粘り強さ」を称えて殊勲賞を授与していたばかりか、その4日後、サンフランシスコで大演説を行ない、誇り有る将軍との間になんら見解の相違はないと公言していた。ところが、ウェイク島でマッカーサーが起こらない、起りえないと言っていた中国の介入で、すべてが一変した。アメリカ軍は退却を余儀なくされ、これを見たマッカーサーは、中国との全面戦争をぶちあげた。つまり、工業地帯を集中襲撃し、中国の海岸を前面封鎖し、台湾の中国本土攻撃を支援せよというのである。実際には、マッカーサーの部かマシュー・リッジウェイ将軍が、朝鮮に投入ずみの兵力を巧みに展開したから、直接中国を攻撃するまでもなく、中国軍の攻勢は押し返された。
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トルーマンが常に心にとどめ、逆にマッカーサー」の心になかったのは、アメリカが朝鮮に介入するのは、第3次世界大戦を引き起こすためではなく、阻止するためだということである。そして結果はそのとおりになった。戦争は膠着状態に陥った。交渉が進むにつれ戦闘は縮小され、やがて、終わりを告げた(1953年7月27日)。ただ、国の分断は終わらず、停戦ラインの緊迫はつづいた。この戦争は高くついた。アメリカの犠牲者は、戦死者が3万3629人、非戦闘での死者が2万617人、負傷者が10万3284人を数えている。さらに行方不明者が8177人にのぼり、捕虜となった兵士7140人のうち、送還されたのは3746人にすぎなかった。540億ドルを超える軍事費が戦争に直接投じられた。ほかにも、国連軍に参加した同盟国の犠牲者があり、韓国軍の死者は41万5000人、北朝鮮の死者はおよそ52万人を数えている(中国軍の死者数は一度も公表されていないが、25万人を超えると信じされている)。