じじぃの「科学・芸術_978_中国・中華人民共和国の成立」

【日本語字幕】毛沢東 演説 "中華人民共和国建国宣言" - Mao Zedong Speech "China Founding Declaration"

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=w4WodNOAQ70

中華人民共和国の成立を宣言

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

中華人民共和国の成立 内戦と朝鮮戦争 より

1945年8月、中国の抗日戦争が勝利した時点に、国民党が支配している中華民国政府は270万人の軍隊、共産党は90万人の軍隊をそれぞれ擁し、両者は国共合作をつづけて平和建国を目指すが、それとも国共内戦を再開するかという道の選択が求められた。アメリカはマーシャル元帥を特使として派遣して調停に乗り出し、共産党中華民国の体制内に取り込むかたちでの平和建国を目指した。しかし蒋介石(しょうかいせき)はみずからの軍事力を過信し、1946年6月、マーシャルがまとめあげた停戦協定を破って共産党根拠地に対する全面攻撃をはじめ、国共内戦が再開された。
共産党は「反内戦」という正義側の中核となり、国民党系以外の諸党派をはじめ国民の大多数から支持を集めた。国民党はかつて孫文(そんぶん)が目指していた全階級を包括する政党から、極右派の集団に代わり、そしてアメリカからの支持をも失った。
毛沢東(もうたくとう)共産党主席は、優れた軍事家でもあり、作戦を巧みに指揮して、1947年に政府軍の攻撃を粉砕し、1948年に反攻に転じて政府軍の精鋭を爆破し、1949年に破竹の進撃で中国大陸をほぼ制圧した。蒋介石中華民国の勢力は200万人ほど台湾に渡り、中華民国の国号を維持して今日にいたる。
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中華人民共和国の成立は、国際社会における独立な人間の出現を意味する出来事であり、米ソはそれぞれ東アジアにおける中国とのパワーシェアリングを模索して対中関係の再構築を目指した。ソ連指導者スターリンは、早くも1949年7月に中国共産党に「世界レベルの原則問題では両党は相談するが、東アジア地域の共産党への指導では中国共産党が責任者だ」として、東アジアにおける中国の主導権を認めた。同月に毛沢東ソ連への「一辺倒」が外交の基本方針であることを宣言した。
他方アメリカ大統領トルーマンは、1950年1月5日、中国政策についての「トルーマン声明」のなかで台湾を含む中国の土地にたいする占領および特権や軍事基地の取得、中国人の内部衝突への介入などをする意思は一切ないと表明した。そして1月12日、アチソン米国国務長官は「アチソン・ライン」とよばれるアジア・太平洋における米国の安全保障ラインを発表し、、それはアリューシャン列島から日本、沖縄、フィリピンへと引かれるラインであった。台湾、朝鮮半島インドシナはこのラインの外側に置かれ、アメリカは実際に中国の周辺地域における中国の主導権を認めたといえる。アメリカは中国がソ連陣営に加盟せず、米ソ間の中間地帯に位置しつづけることを願っていたのではないかと思われる。
毛沢東はかつて米国記者に米ソ間の中間地帯に位置する中国という「中間地帯論」を示していたが、いますでにソ連との同盟を選び、翌月の2月にソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」を終結した。これにより、東アジアにも冷戦構造が形成された。
東アジアの冷戦は、朝鮮戦争ベトナム戦争といった局部演奏が交じるものであった。1950年から、毛沢東は東アジア地域の共産党の指導者として北朝鮮支持、インドシナ独立、および台湾解放に取り組み始めた。アメリカは確かに中ソの同盟を牽制するために、これらの地域における中国の主導権を認めるような「トルーマン声明」と「アチソン・ライン」を発表していたが、中ソ同盟の実現によって政策の前提条件が崩れた。
ところが、中ソと北朝鮮は相変わらずアメリカが朝鮮半島に介入してこないと信じていた。北朝鮮指導者金日成(キムイルソン)はスターリンに「祖国統一戦線」を発動したいと報告し、スターリン毛沢東の同意が条件だと伝えた。1959年5月、金日成は北京を訪れて毛沢東に同意を求めた。東アジア地域の共産党の指導者であったフルシチョフの回想によると、スターリン毛沢東アメリカも介入しないだろうから、朝鮮同志の祖国統一の決心を挫かせる理由はないという点に一致していた。
1950年6月25日、金日成は統一戦争を発動した。トルーマン米大統領は27日に北朝鮮に対して空爆などの武力介入を命令し、さらに台湾海峡第7艦隊を派遣し、「台湾に対するどのような攻撃をも阻止する」と発表して、1月に出されていた「トルーマン声明」と「アチソン・ライン」を反故(ほご)にした。