じじぃの「科学・芸術_636_ベトナム戦争・ドミノ理論」

History of the Domino Theory 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VaxFY2QVWJw

アメリカ人の歴史Ⅲ』 ポール・ジョンソン/著、別宮貞徳/訳 共同通信社 2002年発行
ドミノ理論 より
1968年の財務長官(ヘンリー・ファウラーはベトナム戦争の経費の上昇でドルがまもまく重大な脅威にさらされるだろうと語った)の警告は、新政権がベトナムへの軍事関与の拡大を要求したことで現実のものとなった。この悲劇をこれから検証していくことにする。アメリカがベトナムに介入した期間は20年以上(1954-75)に及ぶ。アメリカ軍は1954年にベトナム派兵を開始し、1975年4月30日に最後の50人が撤退した。ベトナム戦争時代に兵役についたアメリカ人は、陸軍438万6000人、海兵隊79万4000人、空軍174万人、海軍184万2000人、合計で876万2000人である。そのうち約200万人が実際にベトナムで戦うか沖合での作戦に携わった。アメリカ側の戦死者は4軍合わせて4万7244人、入院を要する重傷者が15万3329人、「軽症者」15万375人、そして2483人が行方不明になっている。アメリカ軍がつかった火力の量は莫大で、海軍と空軍は52万7000回の爆撃を行って616万2000トンの爆薬を投下した。これは第2次世界大戦でアメリカの爆撃機が投下したトン数の3倍にあたる。
ベトナム側の損害は悲惨そのものだった。一般人の死者が南ベトナムで30万人、北ベトナムで6万5000人、南ベトナム軍の損失は死者22万3748人、負傷者57万600人、北ベトナムの損失は死者が推定66万人、負傷者の数は不明である。
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アメリカがインドシナで一度も領土獲得をめざしていなかったことはしっかり把握しておかねばならない。基地にしても、ほかのいかなる目的でも領土は望んでいない。しかしその政策は無知にもとづく場合が多く、たいてい混乱し、どれもこれも煮えきらないものだった。トルーマンは大統領に就任したとき、最優先事項はヨーロッパでソ連ににらみをきかせる味方であるフランスに自信を取り戻させること、その自信を支えるのに格好な手段はインドシナをもう一度支配させること、という助言を受けた。1945年12月、フランスはアメリカの承認を得て、ホー・チミンをジャングルへ追い返し、バオ・ダイ帝を香港から連れ帰った。フランスがベトナムカンボジアラオスという3つの傀儡(かいらい)国家をつくったのはこのときで、1950年2月7日にはフランス連邦内の独立国家の地位を与えた。
アメリカはこの動きを黙認した。ソ連と中国はホー・チミン政権を承認し、武器の供給を開始する。これを受けてアメリカは同じことをフランスに対して行ない、朝鮮戦争勃発にともなってアメリカの援助に拍車がかかった。1951年には経済援助が2180万ドル、軍事援助が4億2570万ドルに達し、翌年にはフランスの軍事費の40パーセントをアメリカが負担している。ディーン・アチソン国務省の担当者から、アメリカはインドシナにおいてフランスにとって代わって「責任国」の立場をとろうとしている、と警告を受ける。しかしアチソンは、「乗りかかった船だからやめるわけにはいかない」と考えた。1953年から54年にかけてアメリカはフランスの戦費の80パーセントを支払っていた。
1954年5月8日、ディエンビエンフーにある「難攻不落」の要塞が歓楽してフランスは壊滅的な敗北を喫した。そこでアメリカ空軍による直接参戦を求め、これがアイゼンハワーから拒否されると、新しい政府をつくって撤退の交渉を開始した。7月にジュネーブで調印された停戦協定は、北緯17度線ベトナムを二分し、共産側が北、西側が南をとって、2年の間に国際監視委員会のもとで行う選挙によって統一をもたらそうというものだった。アメリカ軍の介入を拒絶したアイゼンハワーは、ジュネーブ協定に調印することも拒否して、かわりに東南アジア条約機構(SEATO)を創設する。この新しい条約の付随書は、南ベトナムカンボジアラオスについて、この地域を失えば加盟国の「平和と安全」を「危険にさらす」と明示している。これは当時はやっていたドミノ理論を言ったものである。アイゼンハワーは1954年4月に、この理論を発表している。「ドミノ牌をならべて、最初の1個を倒すと、最後の1個はどうなるか。まちがいなくあっという間に倒れる。こんなふうに、分裂の始まりがきわめて重大な結果をもたらすことがあるのだ」。さらに「ビンのコルク栓」「連鎖反応」を口にする。政治家が隠喩をつかうとき――ことに混喩の場合は要注意!である。
アイゼンハワージュネーブ協定を無視しただけでなく、南の新しい首相ゴ・ジン・ジェムが自由選挙という試練を受けるのを拒否するように仕向けた。もし1956年に自由選挙が実施されていたら、南はホー・チミンの手にゆだねられて、経済がもっと力をつけ、もっと安定したかもしれない。現実には、共産側が南に対する新たなゲリラ活動組織をつくり、1957年にベトコン[正式には南ベトナム民族解放戦線]が出現して闘争を開始した。アイゼンハワーは1959年4月4日に次のように主張して、アメリカをこの戦争の当事者たらしめる。「南ベトナムが敗北すれば、これまでの経過からして、われわれだけでなく自由主義に重大な影響をおよぼす崩壊がはじまるだろう」