History Buffs: Tora! Tora! Tora!
映画 トラ・トラ・トラ!
【ストーリー】
1941年12月8日未明、真珠湾急襲に出た日本軍。
それを探知していながらも防ぐことができなかったアメリカ軍。
暗号<トラ・トラ・トラ=真珠湾攻撃に成功せり>とともに日米両国は太平洋戦争に突入していく──。
https://www.nhk-ep.com/products/detail/h22623A1
デンジャー・ゾーン――迫る中国との衝突
【目次】
序章
第1章 中国の夢
第2章 ピークを迎えた中国
第3章 閉じつつある包囲網
第4章 衰退する国の危険性
第5章 迫る嵐
第6章 前の冷戦が教えること
第7章 デンジャー・ゾーンへ
第8章 その後の状況
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『デンジャー・ゾーン――迫る中国との衝突』
ハル・ブランズ、マイケル・ベックリー/著、奥山真司 /訳 飛鳥新社 2023年発行
第4章 衰退する国の危険性 より
「目をつぶって飛び降りる」:日本と第二次世界大戦
大国は、経済停滞による新しい残念な現実を受け入れる代わりに、場合によっては暴挙に出ることもある。また、拡張主義的な国家が自ら優位からの「封じ込め」を誘発し、無理な突進をする場合もある。
1920年代から1930年代にかけての日本は、この双方の力学を経験した。その結果として、第二次世界大戦の悲惨な太平洋戦争が起こったのだ。
1868年の明治維新から半世紀以上にわたって、日本は目覚ましい発展を遂げていた。近代的な経済と強力な軍備によって、日本は清国を破り、ロシアを破り、台湾、朝鮮、中国に植民地を積み上げていった。第一次世界大戦中に日本は中国と太平洋にあるドイツの領地を押収した。
それでも日本はまだ「過度に好戦的な、ならず者国家」ではなかった。1902年から1923年までイギリスとの同盟を継続し、朝鮮半島における日本の支配を認める代わりに、フィリピンにおけるアメリカの影響力を容認した。その期間中の1904年から1919年まで、日本経済は年率6.1%の成長を続けていた。第一次世界大戦中に日本の輸出額は3倍になった。
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最大の問題が始まったのは、日本の経済成長が終わったタイミングだった。日本の経済成長率は1920年代を通じて年率1.8%まで落ち込んだ。関東大震災と銀行の破綻が経済を揺るがした。アメリカの関税が上昇し、日本の絹の輸出が打撃を受けた。そして世界恐慌が発生した。市場が閉ざされ、日本の輸出はたった1年で50%も減少した。
260万人以上の国民が職を失い、農家は娘を売らざるをえなかった。共産主義と無政府主義の影響力が拡大した。ある政府関係者は「失業は日々増していく。家庭は離散していく。飢えた人々が通りに溢れている」と書いている。
とりわけ世界の保護主義への転換は日本の世界経済統合への動きを愚かなものに見せ、領土拡大と経済的自立の探究をより魅力的にした。後に外務大臣になる松岡洋右は「世界の経済戦争は広域の経済ブロックを形成する傾向にある」と述べた。「窒息させられた」日本には「息ができるような広い空間」が必要だというのだ。
世界恐慌のおかげで、日本は中国の変化にとくに敏感になった。1920年代後半には蒋介石率いる中国の民族主義運動が、日本の経済面での特権を攻撃し、その影響力に対抗し始めたのだ。蒋介石はソ連で訓練を受けた軍隊を率いて勢力を伸ばしていた。
同時に他のライバルたちも中国を徘徊していた。ソ連は満州の軍閥に奪われた重要な鉄道を、10万人の軍隊を送り込むことで奪還し、日本の商品ではなくソ連の商品を無税で通貨させる協定を結んだ。
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1934年、東京は東アジアが日本の排他的領域になると宣言した。これはいわば「逆モンロー・ドクトリン」でアメリカ大使のジョセフ・グルーはこれによって「中国は日本の支配下に置かれる」と書いている。ワシントン条約を脱退した日本は、空母、巨大な戦艦、最新鋭の戦闘機などを建造する大軍拡に着手した。そして日本の政府関係者は、1936年までに膨大な資源、市場、地政学的空間を獲得することによって日本を超大国にするという、広大なアジア帝国の計画を描いていた。
この計画では、満州が開発され、中国の広大な地域は占領される。そして東南アジアのヨーロッパ植民地にある石油やゴムなどの豊富な資源を手に入れ、太平洋の西から中央部に広がる戦略的な島々も獲得する。そしてこのような大規模で重要な地域の日本の支配に必ず抵抗してくるはずの国々はソ連、イギリス、アメリカであり、日本にはこのための戦争準備が必要になるというのだ。
首相であった近衛文麿は、以前から日本が要求するものを得られない限り「自己保存のためには現状打破しなければならない」と書いたほどだ。
近衛は有言実行の男であった。1937年、日本は中国に80万人もの軍隊を投入し、蒋介石を屈服させるべく大規模で残忍な戦争を開始した。1938年に近衛は「東亜新秩序」を宣言した。これは日本が支配するアジアで「すべての道は東京に通ず」を目指すものだった。
近衛政権はこの拡大する帝国主義を支えるため、日本を戦時体制に移行させ、ファシスト勢力であったドイツやイタリアと同盟し、独自の帝国を目指した。松岡は「民主政治の時代は終わった。全体主義が世界を支配する」と宣言している。
しかし、広大な中国大陸での戦争は泥沼と化した。真珠湾攻撃の時点で、日本軍はすでに60万人の犠牲者を出していた。この事態は、気をもむ国民に、食糧不足とさらなる犠牲を強いることになった。
拡大政策は逆に、戦争遂行の継続資源を潜在的な敵に依存することになった。第二次世界大戦前の時点でも、日本は「石油の80%、ガソリンの90%、鉄くずの74%、工作機械の60%をアメリカから輸入」していたのだ。陸軍の幹部は「70年にわたるイギリスとアメリカへの依存を、商業的にも経済的にも終わらせることを目指している」と宣言していたが、中国での終りの見えない戦争は、それとは逆の効果をもたらしたのである。
それは同時に、日本の背中に的(まと)を掲げることにもなった。満州と中国北部への進出は、やがてスターリンの赤軍が日本の第六軍を打ちのめす、日本とソ連との痛烈な短期戦を引き起こした。
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1941年の秋、日本政府は英米開戦を覚悟の上で、シンガポールから太平洋中央部にかけてのオランダ領東インド、フィリピンなどの領有権の奪取を決定した。政府高官の中には全面戦争に勝てると思っている人はほとんどいなかった。
山本は「それは是非やれと云われれば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と予測していた。しかし彼らは開戦の代わりに、日本が敵の前に無力となってしまう急激な衰退を恐れていたのである。
また彼らは、一連の電撃的な攻撃によってアメリカが戦意を喪失し、戦闘を継続するより、和平を求めるようになることを望んでいた。戦争は、うまく行っても非常な危険をもたらすし、最悪の場合には国家の破滅をもたらすかもしれない。ところが日本を最終的戦争に導く将軍となった東條英機は「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と述べたのである。
これが真珠湾への奇襲攻撃の発端であった。もし戦争が避けられないのであれば、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させることで、一時的な軍事優位と日本の新しい征服を確立する時間を稼げばよいではないか。
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現在の中国の指導者たちは、中国共産党を帝国ドイツや、とりわけ大日本帝国と比較することに憤慨することだろう。それは一理ある。というのも、中国は日本が第二次世界大戦までの10年間に行っていたような軍事侵略に乗り出してはいない。
だがあまり安心もできない。帝国ドイツは1871年以降の40年間にわたって大きな戦争をしなかったが、1914年にはほぼ想像を絶する規模の破局へと世界を突き動かしたのである。
イギリスの首相を務めたデイヴィッド・ロイド=ジョージは、第一次世界大戦が「大洪水……自然の激変」であり「ヨーロッパの生活の根底を揺るがした大地震」だったと述べた。修正主義的な大国が不吉な兆候を感じると、事態は急速に悪化し、少し前までは想像もつかなかったような結果をもたらすこともあるのだ。
懸念材料はもう1つある。過去の日本と同様に、現在の中国にも数多くの心配な案件が存在する。中国は、脱却が極めて困難な、長引く景気後退に直面している。また、北京の前進を阻もうとするライバルたちによる包囲網が、少しずつであるが形成されつつある。
また、中国は権威主義的な体制とその経済モデルを保持するため、重商主義的な拡大が魅力的な政策となっている。貿易に対する期待は、著しくネガティブなものに変わりつつある。実際、中国はすでに軍備増強、勢力圏の追求、重要な技術や資源の管理といった、その立場にある国家がやりそうなことを一通り行っている。
目覚ましい発展を遂げながらも、経済の停滞と包囲網に悩まされている国の「侵略のレシピ」があるとすれば、中国はその重要な素材をすべて備えていることになる。
次章ではより好戦的になった中国がどのような動きを見せることになるのかを検証していく。