じじぃの「科学・芸術_977_中国・日中戦争=抗日戦争への道」

重慶 爆撃

南京虐殺事件

世界史の窓
日中戦争の中で、1937年12月、南京国民政府首都の南京に対する総攻撃の際に、日本軍によって組織的に展開された、捕虜や非戦闘員に対する殺害、さらに略奪、強姦などの不法行為が行われたこと。国内では明らかにされなかったが、当初から国際的には大きな批判を受け、戦後の東京裁判などで軍指導者が処刑された。
戦時における虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員を殺害することで、国際法上許されない行為である。東京裁判では約20万以上の虐殺が認定され、中国では30万から40万という数字が挙げられている。このような「大虐殺」の数字には根拠がないとして否定する論者もいるが、日本側の研究でも30万に近いと想定するのが正しいようである。なおこの事件を「南京事件」という場合もあるが、一般に南京事件は別の事件(1927年)を指すので注意すること。
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-063.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

日中戦争=抗日戦争への道 侵略の全面化と抗戦体制の確立 より

日清戦争と台湾割譲、第一次世界大戦期の対華21ヵ条要求など、近代の日中関係史で、中国人の日本に対する悪感情が造成される材料は事欠かなかったようにもみえる。しかし、五・三〇運動運動から国民革命にかけての時代、中国ナショナリズムの主たる攻撃対象はむしろイギリスであった。北伐の途上で漢口、九紅のイギリス租界が兵士・群衆により選挙され、結果てきには中国に変換されることになる。
国民革命中、高揚したナショナリズムを背景に、兵士・群衆は列強の中国における利権をしばしば脅かし、南京(なんきん)などで衝突がおこった。
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国民革命軍による北伐の途中、日本は居留民保護を名目に2度にわたって山東に出兵し、1927年5月には国民革命軍と微力衝突をおこし、中国側に5000人以上の死傷者を出した(済南事件)。山東出兵、済南事件は、中国の世論が反英から反日に大きく転換するきっかけとなった。1928年6月に北京から撤退した張作霖(ちょうさくりん)を日本が爆殺し、その真相が世論に知られたこともこうした傾向に拍車をかけた。
こうしたなかで、中国国内に日本製品のボイコットなどの反日運動が広がり、中国における日本人の経済活動に大きな打撃を与えた。そして今度はこれが、日本政府・軍によるさらなる強硬措置を望む日本人の側の空気を醸成し、日本の武力侵略がいっそう過激になる、というように、両国間の関係は悪循環に陥っていく。中国においてようやく国家建設が軌道に乗りつつあったこの時期に、日本は、中国ナショナリズムの最大の敵という立場を、みずから背負い込むことになったといえよう。
1931年9月18日、日本が中国東北に駐屯させていた関東軍は、みずから満鉄線を爆破し、これを中国軍のしわざとして攻撃を開始した(満州事変=九一八事変)。日本軍はまたたく間に東北各地を占領し、1932年3月には傀儡(かいらい)国家「満州国」を樹立した。
国民政府の側は、当初単独で日本に対抗することは難しいと考え、直接的な武力による対決を避け、国際連盟などの外部の介入を要請することで問題を解決しようとした。しかし、日本の侵略はとどまることがなく、そのあとも数度にわたる侵攻で華北を浸食し、華北親日政権を作って中国本土から切り離す、華北の分離耕作がおこなわれた。
こうした日本の侵略に対抗するためにも、1830年代前半、国民政府は、まず国内の統一と安定化に力を注いでから外敵を防ぐ、「案内壤外」という方針を採用する。国内の安定化には、第1次国共合作決裂後、農村部に根拠地を築いて抵抗していた。共産党の勢力の存在が脅威と感じられていた。共産党が1931年11月に江西省瑞金(ずいきん)で成立を宣言した中華ソヴィエト共和国は、約250万人の人口を抱え、紅軍(共産党の軍隊)の兵力は、1933年末までには30万人を超えていた。「案内壤外」の方針を採用した国民政府は、1933年以降、中央政府軍の主力部隊を投入して共産党の江西根拠地を壊滅に追い込んだ。
しかし、共産党軍(紅軍)主力は根拠地を放棄して脱出し、せん滅をまぬがれた。共産党軍はチベット高原東端の少数民族地域などを通過し、1万2500キロメートルの行程をへて、1935年10月に陝西省北部に到達した。この共産党の行軍は「長征(ちょうせい)」とよばれ、共産党は以後、陝西省北部の延安(えんあん)を中心拠点として根拠地を築いていく。のちに中華人民共和国建国の父ともいうべき象徴的存在となる毛沢東(もうたくとう)は、この長征の途中で共産党内での指導的な地位に就いた。
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こうした背景のなかで、1936年12月、対共産党掃討作戦の督戦のために西安にやってきた蒋介石(しょうかいせき)を、前線を指揮していた張学良(ちょうがくりょう)・楊虎城(ようこじょう)が監禁し、内戦の停止と一致抗日を要求するという事件がおこる(西安事件)。交渉の結果、蒋介石は2週間で解放され、そのあと国民政府は条件つきながら、抗日戦争のために共産党軍の存在を容認し、抗日のために国共両党は協力関係に入った(第2次国共合作)。
このように、中国側では、一致抗日の態勢が整いつつあったが、日本では尾崎秀美ら一部の批判的知識人をのぞいてこのような状況を理解しようとせず、相変わらず、軍事力で中国側を簡単に屈服させられるという考えが支配的であった。1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近で、日本の支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)と中国軍のあいだに些細な衝突がおこると(盧溝橋事件)、日本側は政府のあと押しもあり、これを口実に、なし崩し的に戦線を華北一体に拡大した。
戦火は華中にも飛び火し、1937年8月13日には、日本軍は上海でも攻撃を開始した。(第2次上海事変)。これによって日中は全面戦争に突入し、日本軍は激戦の末上海の中国軍を退けると、12月13日には当時の中国の首都・南京を陥落させた。南京を占領下日本軍は、中国軍捕虜や民間人に対する大量虐殺や、女性に対する強姦を引き起こした(南京大虐殺)。この事件については当時から日本軍の内部でも知られていたが、今日、被害者のみならず、加害に加わった日本人兵士からも多数の証言が残されている。
首都南京陥落後も、国民政府は主要機関を武漢に移し、抗戦をつづけた。軍事的打撃を加えることで中国側を早期に屈服させられると考えていた。日本側の目算は完全に外れたが、日本政府はなおも、1938年1月に国民政府と交渉しないという声明を出し、戦線を拡大しつづけた。同年8月には、日本軍は武漢、そして、香港を通じた外国からの中国援助ルートにあった広州を攻撃し、10月にはこれらを占領した。しかし、重慶に拠点を再度移した国民政府の抗戦はなおもつづいていく。
武漢を陥落させた段階で、日本軍の補給線は延びきっており、これ以上の奥地への進撃は難しく、戦争は泥沼化していく。日本軍はは西南、西北の各省をのぞく中国の主要な都市をつぎつぎと占領していった。